ネパリの服作りを支える生産者

草木染めと絞りの生産者 「マヌシ」 文:土屋春代

マヌシは1991年に設立されたNGOで、主に絞り染めの製品を生産、販売しています。
 代表のパドマサナ・サキャさんは当時女性問題を調査するNGOの設立メンバーとして役員を務めていました。あちらこちらの村にでかけ女性たちが直面している問題を調べているうちにあらゆる女性問題の背景に貧困が大きく影響していることを実感し、教育を充分受けられなかった女性たちが技術を身につけ仕事を得られるようにと技術指導のプログラムを実行しました。ところがトレーニングを受けた女性たちから「教えてくれるだけでは生活は何も変わらない。受けた意味がない」と強い批判を受けました。パドマサナさんは女性たちが収入を得られるようにマーケットの開拓と継続した仕事づくりの必要性を感じましたが、他のメンバーの賛同を得られませんでした。そのため自ら別組織を作る決意をし、マヌシを設立しました。当初は製品の質も低く、販売が思うように伸びませんでした。それでも厳しい貧困に苦しむ地域で女性たちをグループ化し技術指導者を派遣したり、できあがった製品の販路を見つけるために奔走し、必死の努力を重ねる一方、インドから染色の専門家を呼び品質向上の指導を受けるなど地道な積重ねに励み、徐々に売上も伸びてきました。
 他にはできない特徴を出すために草木染めにも取り組み始めたマヌシに、ネパリ・バザーロはデザインと販売で協力し、お客様の好評を得て売上も着実に伸び、マヌシでは一昨年のダサイン祭り(10月に行われるネパール最大の祭り)の時にボーナスも支給できるようになりました。
       
  10年ほど前、パドマサナさんが貧しい地域の女性たちに技術指導をして収入を得られるようにと計画し、選んだ村、ハルチョーク村。カトマンズから僅かしか離れていない郊外ですが、男性は働かず、昼間から酒を呑み、博打をしていました。その村は貧しく、荒み、女性たちは次々産まれる子を育てながら石切り場の砕石作業などで細々と収入を得て家族を養っていました。パドマサナさんたちが訪問を始めた頃、男性たちは家々の窓を閉め、女性たちを隠しました。女性に要らぬ知恵を付けられて男性に逆らうようになっては困るからというのが理由でした。歓迎されぬ村に数ヶ月通って、ひとりまたひとりと集めてやっと 人の女性グループを作って縫製の指導を始めました。皆、まだ 10歳そこそこの子どもたちで、針を持つことも初めての彼女たちに手縫いから教えてミシンを扱えるように指導しました。しかし今でも働いているのは3人だけで、カンチさんとラクシュミさんはマヌシに通って働き、もう一人は自分でミシンを買って、小さい作業場を開き、縫製を請け負って働いています。他の女性たちは結婚したり、砕石作業の現場で働いたりしています。今でも周囲の村から取り残されたように貧しいこの村で、女性たちの地位があがるにはまだまだ時間がかかるだろうとパドマサナさんは言います。村長は妻が 19人いることが自慢で「俺が嫁にもらってやらなければ、皆ボンベイに行くしかない」と、ボンベイに行って売春婦になるしかない女性たちを救ってやっていると威張ります。売春婦になるか何人もの妻の一人になるかしか選択肢がないというのは極端かもしれませんが、道が限られているのは事実です。 
      
マヌシで働く女性たち
カンチさん(パドマサナさんの推定では21 歳。実年齢は母親も本人も分からず)

 縫製を担当するカンチさんは、3番目の兄夫婦と7歳の甥、母と聾唖のハンディキャップがある次兄、妹と暮らしています。上の兄は結婚して別に暮らしています。3年前に父親は事故で亡くなりました。マヌシに通い収入を得、給料を貯めて買ったミシンで、夜も持ち帰った仕事をし、甥の学費を出すカンチさんは一家の大黒柱です。
 2002年の6月から始めたネパリ・バザーロの縫製技術指導で日本から専門家を連れて行った時、マネージャーのアヌーさんは「カンチさんが一番上手だから彼女に教えてください。彼女から後で他の3人に教えます」と言われました。つきっきりで指導を受けながら、新しいことを知ることがうれしくてたまらないというように挑戦していたのが印象的でした。
 母親は朝早くから遠くの山まで数時間かけて薪を切り出しに行き、帰り着くと水を一杯飲んだだけでまた外に出て、黙々と重い斧を振り上げ薪を割っています。尋ねても自分の年齢が分からず、首を振るその姿は70 を越しているといわれても納得してしまうほど老けてみえますが、子どもの年齢から考えて多分50 歳にはなっていないでしょう。
 まだまだ因習的で、女性は自分のことなど顧みることができず、昔からの生活を続けるしかない村に住むカンチさんは、マヌシで働ける喜びを強く感じています。通勤に一時間半かかる彼女の家までは、バスを降りてからも長い坂道が続きます。舗装されていないその道は雨になると滑って歩きづらいのですが、どんな道も、長い通勤時間も仕事のためには苦にならないと言います。
           
ラクシュミさん( 21歳)
 5人の兄と弟、3人姉妹の真ん中です。2人の兄は家庭を持ち別居し、他の兄夫婦と8人で暮らしています。マヌシからの給料はこづかいと交通費を除いて母親に渡しています。
 ラクシュミさんもカンチさんと同じトレーニングを受けた仲間で、マヌシでのラクシュミさんの担当は絞りと染色とアイロンがけです。きゃしゃな彼女が楽々と持っているように見えるその大きく重い鉄のアイロンは持ち上げるのも大変ですが、ラクシュミさんは多いときは一日中それをかけることもあります。兄家族と同居するラクシュミさんは帰宅後や休日は兄の経営する小さな店を手伝ったり、持ち帰った絞りの仕事をして過ごします。
           
 カンチさんもラクシュミさんも「結婚は?」と問うと、ただニコニコと笑って答えません。彼女たちに仕事を教え、常に気にかけ、妹のように可愛がるアヌーさんが代わりにこう言いました。「この村ではこの人たちは普通の女性ではなくなったの。釣合う男性はいないから、ここでは結婚できないでしょう」と。「あら、大変。それでいいの?」と聞くと、二人は益々ニッコリと大きな笑顔を向けました。


ネパール染色の歴史
 
ネパールにおける天然染色には、長い歴史がある。布や毛糸を染めて織物を作る時、また、タンカなどの仏教画やマンダラ、僧院の彩色などの際に天然染料は用いられ、それは今でも鮮やかな色を残している。その天然染料には、少なからぬ数の植物が染料として伝統的に使われてきた。
  14世紀頃より、染色をするカーストは、カトマンズにいるネワール人達の中で「チパ(Chippah)」と呼ばれていた。
  18世紀には、ネパールに自生する植物がネパールの豊かな染色に生かされていることが再認識された。中でも、染料としてよく知られている茜は、古い資料にも記録され、リンブー族が茜と塩を物々交換していたこともわかった。最近では、クンブ地方のシェルパ族が多種の植物染料(特に茜を用いたもの)を少なくとも1940年代まで用いていたことがわかったが、1953年からは山間部にも化学染料が急速に広まった。化学染料は、価格が安く使用方法も容易であり、村の人々にとってはいろいろな色を染めるため多様な植物を集める時間の短縮にもなった。しかしながら、経済状況は変化し、現代の人々の嗜好はより自然で環境にやさしいものを好むようになった。今の時代は、その土地に根ざした原料を利用して伝統的技術を再生したものを要求してきている。それに応えるかたちで現在のネパールでも天然染料を使った染色が見直されている。


戻り