ネパールの未来を拓くフェアトレード ネパリ・バザーロの目指す服作り。

 土屋春代 ネパリ・バザーロ代表

中学時代に知ったネパールの子どもたちの厳しい状況と、その20数年後に聞いた状況が殆ど変わっていないことに強い衝撃を受け、教育支援活動を始めた。しかし横たわる深刻な貧困問題に直面し、仕事の機会創出のため1992年ネパリ・バザーロを設立した。

 青木いみ子 ネパリ・バザーロ技術顧問
服の創作作家。アパレル産業の第一線でパタンナーとして活躍した経験を活かし、ネパリの服作りを支える。ネパールの生産者の状況を自ら確認して、現地の技術に見合う工夫をする。
ネパリ・バザーロを創立した土屋春代はこれまでずっとネパールでの服作りにこだわってきた。それは情熱だけではできないこと。プロの立場からそれをサポートしてきたのがパタンナーの青木いみ子だ。



出会い
司会 今日はネパリ・バザーロの服について、お二人にお話を聞かせていただきます。

土屋春代(以下土屋) ネパリ・バザーロを始める時、最初から服をメインにしようと考えていました。ネパールで仕事作りをするには、より多くの人が仕事を得られる服作りは欠かせません。でも、服の専門知識がない私が服作りをしようとしても、なかなか形にならず、イライラ、モヤモヤしていたんです。
 その頃に、お取引先の方に紹介していただいたのが青木さんです。現場でプロとして仕事をしている青木さんと出会ってから、なぜそれまでうまくいかなかったのかが分かりました。

司会 協力を依頼された時、ネパールで服を作ることをどう感じられましたか?

青木いみ子(以下青木) 服を見て、雑だとか縫い方が悪いというのではなく、着やすいパターンでできていないのが問題だと思いました。手を抜いているとか、穴が開いているというなら大変過ぎるけれど、日本人に合った、しっかりしたパターンを持っていけば良い物が作れると思いました。

土屋 青木さんにお会いした頃で印象深いのは、プロとしてきちんと報酬をもらい、気持ちはボランティアで関わりたいとおっしゃったこと。この人なら信頼でき、妥協しないで仕事ができると思いました。

試行錯誤の9年間
司会 今、ネパリ・バザーロの服は種類もデザインも豊富ですが、今に至るまで本当に様々な苦労があったんでしょうね。

土屋 服作りがやっとメインになってきたのは、つい最近のこと。最初のカタログができたのが、 98年ですが、それに服は載っていません。服らしい服ができ始めたのは2002年頃からです。9年間は試行錯誤の時代でした。

青木 ほんの5年前でも、今に比べると服のパターンはとても少なかったんですよ。今でやっと20 型くらいかしら。2000年くらいから、種類の広がりが出てきましたね。

司会 最初の頃、苦労したことは何ですか?

土屋 服の素材、付属品などを見つけるのに、とても苦労しましたね。

青木 当時( 11年前)のネパールの既製服を見ると、ファスナーや芯地などの付属品の質は、日本では40 年くらい前のものでした。今でもそれほど変わりません。ネパールで素材、付属品などを選ぶというよりは、代わりになるものを探しました。

土屋 特に苦労したのは、布地。ネパールには「これだ!」と思うようないい布地がなくて、仕方なくインド製のレーヨンやコットンの布で作ったこともあります。でも、それでは仕事の裾野を広げ、より多くの人の就業の場を作るということができない。加工しかできません。ネパールの素材で、ネパールで織られた布をどうしても使いたかったんです。でも良い布が見つからず、思いばかりが空回りしていました。

青木 土屋さんがネパールから戻ると電話が入り、1、2点をサンプルとして作りました。それを何度も繰り返してきたけれど、適した布が見つからず、実際に商品になったのはごくわずかです。

ネパールの布を使って
青木 マヌシにオーダーしたテーブルクロスからスカートを作ったのが、今のネパリの服作りのはじまりです。2001年の春夏カタログに載りました。

土屋 そのテーブルクロスも、もともとマヌシにあった絞りのデザインではないんです。色々な絞りを見てどういうデザインだったら売れるかを考え、すっきりとした直線絞りをデザインしてマヌシに作ってもらいました。マヌシとは 95年ごろに出会ったのですが、この直線絞りにいたるまでが長かったんです。

司会 その頃、他に作った服はありますか?

土屋  年に知人の紹介で知り合った生産者のところでブラウスを作りました。大きな縫製工場の経営者で、インドの職人を大勢使って大量生産し、海外に輸出する一方、ネパールの布にこだわったものも少しずつ作っていました。考え方は一致していたけれど、価格が高いことや、職人がネパール人ではないことにも疑問を感じ、一緒に仕事を続けることができませんでした。とにかく手織りの布を作ってくれるところを必死で探しました。最初からおつきあいしていたマハグティでも布を織ってはいました。パジャマのような柄ばかりで気に入らなかったんですが、もうここしかないと、布のデザインから手を出すことに決めました。

青木 マハグティのワンピースは売れましたね。織りが思ったようにできなかったからと、土屋さんがブロックプリントで絣風(かすり)に仕上げたのには驚きました。

ネパリ・バザーロらしい服作り
土屋 マハグティで服を作るようになって、ようやく服作りが見えてきました。それでも、まだまだバリエーションが少なく、苦労しました。その頃、コットンクラフト代表のサラダさんを研修に招くことができました。 99年のことです。サラダさんは、服はリスクが高くて怖いから小物しか作らないとそれまで言っていましたが、日本のマーケットを見て、服作りへの意欲が出てきたみたいです。

青木 サラダさんが服作りを手がけてから、服らしくなってきましたね。

司会 服を作り始めた頃、サラダさんの工房の人数は?

土屋  12人ほどです。3人から始めて、人数をどんどん増やしていた頃で、袋物やスリッパばかりでは先が少し不安になっていました。何か新しいものに挑戦しなければ先細りになります。それには服が良いと思っていたらちょうど考えが一致しました。それから、洋服のアイテムが増えましたね。マヌシでの草木染めや縫製の技術が上がったのは2002年くらいです。

司会 服作りが軌道に乗ったのは本当につい最近なんですね。

土屋 はい、本当にごく最近のことです。

青木 縫製も、カットも、この1、2年で目に見えて進歩していますね。

希望を失わず
司会 ここまで来るのには、9年かかったとお聞きしましたが、数々の困難に出会って、投げ出したくなったことはなかったのですか?

土屋 しょっちゅうです。

青木 一緒に一週間ネパールに滞在すると、土屋さんの表情は前途洋々明るくなったと思うと、とたんに暗くなり…の繰り返し。でも、最後には「これで行ける!」と希望をもって帰国する。めげないんですよね。
 私が初めて生産者を訪ねた時には、「え どうしよう」と思いました。土屋さんに「何か言って」と言われても も も駄目と言われたら嫌でしょう。どうしよう、どこから取り掛かろうかと思いました。

土屋 黙り込んで暗い顔していましたね。とにかく、何かいいところを見つけてあげてってお願いしました。

青木 訪問する回数を重ねるたびに、働いている女性たちがどんどん生き生きして、着ている服もだんだんきれいになって、颯爽と通勤してくるのを見るとうれしくなって、本当にやっていてよかったと思います。

土屋 日本だけで考えて、離れてやり取りをしていたら、続かなかったでしょうね。この人のために、と思うからこそできたんだと思います。どの生産者もやる気があって、少しずつでも変えようとしています。だからこそ、こちらも続けていけるんですよね。

めざましい質の向上!
司会 ネパリの洋服は本当に着心地がいいですよね。ここ数年で今までの苦労が確実に成果となって現れていると思いますが、いかがですか?

土屋 成果が現れてきたのは、本当にこの2、3年。やってもやっても成果が見えない9年間がありました。でもその間、自分達も練習していたのだと思います。日本国内でも難しい服作りをネパールでやっていくには、私自身が勉強する必要がありました。9年間はそれに必要な時間でした。だからこそ、今スムーズに動けるようになったんだと思います。いきなり今のようにはならなかったでしょう。生産者に対して、このくらいはできるだろう、とか、やって欲しい、という思いが打ち砕かれ、期待しない癖がついていて、少しでもできたら、すごい!と受けとめられるようになっていました。できて当たり前と思っていたら、きっとここまではできませんでした。青木さんは、ネパールに行き、生産者の様子を自分で知って、ここからやらないといけないんだ、と分かってから変わったように思います。

青木 それまでファスナーを使わないでとか、淡い色はだめとか言われても、どうしてだめなのか分からない気持ちもありました。ネパールに行くようになって初めて、無理して日本では常識のやり方に拘らなくても、買ってもらえるデザイン、縫製を考えた方がいいと身に沁みて感じ、頭が少し柔らかくなりました。

土屋 まさに百聞は一見にしかず。ネパールの生産者の技術、状況に合わせた服作りができるようになり失敗が減りました。それに一緒に行くようになって、物事を決めるのが早くなりましたね。以前は私が情報を持ち帰り、日本で決めていたのが、ネパールで一緒に考えられる。ダメな場合の対策が滞在中に決められる。そのスピードアップも品質向上に反映されていると思います。

司会 ネパールへ実際に行って、青木さんは何か変化を感じますか?

青木 ネパールへの自分の気持ちが年間を通じて切れないようになりました。他の仕事をしていても、気持ちがネパリから切れずにいるのも、良さですね。

土屋 いろいろなことが、プラスに動いていますね。

青木 例えば今、一年先のものを企画していますが、前よりも余裕ができてきました。定番の洋服も増えて、新しい製品にもじっくりと取り組めるようになりました。ボタン一つとっても、最初の頃は「う〜ん」と考え込むことばかり。天然素材はネパリの魅力だけれど、天然であるだけがとりえでした(笑)。今は格段に進歩しましたね。

手織りの良さを生かして
土屋 布も質が上がりました。マハグティにパジャマのような布では、せっかくの手織りが台無しだと何度言っても伝わらなくて、2、3年前に織って欲しい布のサンプルを見せると「これでいいのか?」と驚かれました。マハグティは手織りで、機械織りのようなものを作ろうとしていたんです。私たちは手織りの良さを生かしたかった。その時初めて理想とするもの、感覚が違っていたことに気づいて、お互いに驚きました。例えば、マハグティの事務所の壁にかけてあったタペストリーの織りから去年の多糸織ラップスカートが生まれましたが、マハグティにタペストリーをスカートにすることを提案すると「壁掛けだよ、どうしてスカートができるの?」となかなか理解してもらえませんでした。

青木 もちろん、タペストリーをそのままスカートにはできませんが、それを土台にして、織りを薄くしたり、色を変えたりして、多糸織ラップスカートができました。

司会 ネパール側だけに任せていてもできなかったことが、ネパリの工夫で生きたものになっているんですね。

土屋 本当に一人ではできないことです。

青木 ネパリが作ろうとしている日本のマーケットに合った商品は、生産者側だけの工夫ではできません。

土屋 向こうとこちらの感覚のずれがすごいんです。生産者は日本のマーケットを知らない。どうしても服作りに関しては、こちらが主導権を持つことになります。長い目で見ると、服はメインのアイテム。手作りの良さを生かし、素材の良いものを、一点一点手をかけて作るのが、生産者にとっても、私たちにとっても良いという信念は常にありますが、生産者のところでは、実際は一喜一憂しています。長期的な信念がなかったら、もうだめだと諦めていたでしょう。

ハイテクからローテクへ
司会 大きなビジョンがあるからこそ、続けてこられたんですね。

土屋 今は通過点に過ぎず、この先がある、絶対そこに到達できると信じているからできるんだと思います。その思い込みに根拠はないんですけれど、時々よい兆候は見えるのでそこにすがりついています。0から1まで上がるのに9年かかりましたが、今は新たな段階に入っています。昨年から、紙布というプロジェクトも始め、素材そのものから作っていくという段階に入りました。これからは、テキスタイルや刺し子にも取りかかっていく予定です。他にない良いものができると思います。大量生産のマーケットには入りたくないんです。

青木 大量生産に入るには無理がありますね。手作りの良さを生かせるものを、コツコツとやっていくのがいいんです。

土屋 作り手の将来を考えると、大量生産は大きな工場に勤めないといけないけれど、手作り品は家でもできます。ある程度技術があれば、人も雇えるし、教えることもできます。大量生産は 年働いてもただの縫い子。設備がなければ家庭のミシンでは作れません。手作りの技術は一生の財産になります。それに紛争が続き、家から出られない日が続くこともある現状では糸と針さえあればできるように手縫いのデザインも考える必要があります。日本人が関わっているのに、何故かハイテクからローテクへ。

司会 消費者が求める手作りのものは、作る側にもメリットがあるのですね。

土屋 日本のマーケットには世界中から物が入ってきていて、お金さえ出せば何でも買えそうだけれど、意外と欲しいものがないですよね。作家の作品は良いけれど高すぎる。手ごろで、安心で、着心地の良いもの。それがネパールで作れるようになってきています。これをさらに発展させたいんです。その路線に迷いはありません。

司会 以前、アパレル産業で働いていらした青木さんから見たネパリの服作りの特徴は?

青木 ネパリのものは一点一点裁断し、縫製しています。今の日本の洋服は海外に出しての大量生産か、うんと高いものしか市場にありません。普通の人は高いものばかりを普段の生活に使えません。ネパリの服でやっていきたいのは、すごいお出かけ着ではなく、日々の暮らしの中で、気持ちよく、かつすっきりと見える服を天然素材で作ること。天然素材で、シルエットがきれいなものは、日本のアパレルでは高額になります。ポリエステルで気にいったデザインならいいという人は良いですが、天然素材ですっきり見える日常着はあるようでないんです。それをネパリの服で作っていきたいと思います。

司会 一般のアパレル産業ではできにくいものが、ネパリでは作れるということですか?

青木 今の環境ではそうですね。毎日着るものこそ気持ちよく良いものをと思っていました。ネパリの服は、そうした服。すごいブランド品を勝負服として着る人でも、体調が悪い時にそういう服は着たくないでしょう。ネパリの服は日々の暮らしの中のほとんどのシーンで着られます。くだけすぎず、安っぽくもない。それが一般の服と違うところ。

土屋 とにかく手がかかっていますものね。

これからの目標
司会 日常でも、おでかけにも、というのがありそうでないですね。それが、ネパリのこだわりでしょうか。消費者としてはとてもうれしいことですね。
 これまでたくさんの限界を乗り越えてきたと思いますが、青木さんはなぜ、ネパリへの協力をここまで続けてこられたのでしょう?

青木 今まで無理な形ではやってこなかったからでしょうか。

土屋 仕事としてやったことで、その範囲を守れたんですね。でも一昨年初めてネパールに行ってもらったとき、ネパールは政情不安で危ない時だったんです。一度だけでもネパールへ行ってほしいという思いがやっと実現しようとした時、ネパールの情勢が極度に悪化し、どうしようかと思いました。状況を率直に話してどうするか尋ねると、ためらわずに「行きます」といってくれたのが嬉しかったですね。それはもう単に仕事だからではなくなっていたのでしょう。

青木 私はネパールに行ってみなくてはと思っていましたが、行くだけではダメだとも思っていました。自分なりに、行くと口にするからには、言われたことだけ協力するのではなく、もう一つ越えた覚悟がないと、という思いがありました。政情不安は、そこで生活している人がいて、土屋さんも行って帰ってきているから行けると思いました。気持ちの上で、もう一つ踏み込むことになっても大丈夫という覚悟はしていきました。

土屋 青木さんがネパールに行くまでは、こういう服を作ってほしいとお願いしてきましたが、ネパールに行ってもらってからは、企画から相談に乗っていただいています。深みにはまってきています(笑)。

青木 今後も、このまま行くと思います。これから先を考えると、あれもできそう、これもできそう、と楽しみですね。実際どこまでできるかは分からないけれど、5年前に比べると、できそうという思いが強いですね。あとは自分の健康。けっこう体力が必要ですから。

司会 今後どんな服を作っていきたいですか?

青木 量販店向けではなく、数は少なくても本当に一点一点目の行き届いた、日常の中で着てもらえる、自然素材の服を作っていきたいですね。

土屋 心地よく、安全で、おしゃれに。手仕事のよさをさらに生かす刺し子も考えています。ネパリは、ロクタの紙からつくる紙布プロジェクトを進めていますが、ネパールの原材料とネパールの技術を最大限に生かして日本につなげたいです。今後も、作る人、着る人両方が喜ぶ顔をイメージしながら進めていきます。

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