フェアトレードニュース WORLD TODAY
IFAT前事務局長キャロル・ウィルズさんから日本の皆様へ

2年に1度開かれる国際フェアトレード連盟IFATの国際会議が、2005年5月1日から7日まで、エクアドルのキトーで開催されました。テーマは「より良いビジネスでより良い世界を」です。今年は、連盟事務局をイギリスからオランダへ移したこともあって財源が厳しく、生産者が国際会議に出席する旅費支援ができなくなりました。ネパリ・バザーロは、取引先のマヌシ(P.54参照)の要請を受け、私達が参加する代わりに出席してもらうことにしました。
 会議の模様については、機会をみてご紹介したいと思います。今回は、ここまで連盟を育てた前事務局長のキャロル・ウィルズさんに、フェアトレードに関わった経緯や、フェアトレードに関心を寄せる人々へのメッセージを頂きましたのでご紹介します。

IFAT(The International Fair Trade Association)は、公正な貿易の普及を目指す世界中の組織の連合体です。途上国の立場の弱い人々の自立と生活環境の改善を目標に1989年に結成され、欧米や日本のフェアトレード組織と、アジア、アフリカ、中南米の生産者組織が情報や意見を交換する場ともなっています。日本の3団体を含め約60ヶ国200団体のメンバーが加盟しています。



 私は5才のとき、両親とともにイギリスのサウサンプトンから船でケニヤのモンバサまでの旅行をしました。船がスエズ運河を通り、ポートセッドに入ったとき、船のデッキから投げられるコインを捕るために、小さな少年が水に飛び込んでいました。私は、サメがいっぱいいる海に入る少年はとても勇気があると思いました。また、僅かなお金のために危険を冒すその少年は、非常に貧しいのだろうとも思いました。
 その後、汽車でモンバサからナイロビに行きました。そこでも、ある駅で老人が物乞いをしている場面に出くわしました。彼は、歩くことができず、小さな車の付いた板に膝を乗せ、動き回っていました。私は大変悲しくなりました。
 このような出来事を通じて、普通の生活では容易に考えもしないような社会意識の芽を早くに開花させました。着ている服、食べる物、住む家、話す言葉、そして、どのように生計を立てているかなど、常に様々な人々の生活に興味を抱くようになりました。
 私は、初めからフェアトレードの仕事をしていたわけではありません。私の最初の仕事は、南大西洋の中ほどにあるセントヘレナ島で、ボランティア教師として中学校で教えたことでした。仕事の機会がほとんどないその島では、船旅を楽しみながら時折訪れる観光客に、レース、アクセサリーやバスケットなど手工芸品を販売して、生活の足しにしていることを知りました。その後、2、3年の間、国際的な教育関係の出版の仕事に携わり、英語圏で使われる学校用テキストの制作をしました。
 それからボランティア組織である英国協議会(BNCVO)の国際部門で仕事をしました。日本のソーシャル・ワーカーのために、イギリスで専門家育成プログラムを担当し、日本の社会福祉制度を研究するために日本を初めて訪問しました。1974年、イギリスが欧州連合に加わった時、英国協議会の最初の連携事務所を開くためにブリュッセルに派遣されました。この時、私は結婚していて、そこで娘が生まれました。
 1976年、イギリスに戻り、オックスファム、ティアクラフト、トレードクラフト、そしてFRIDA(Fund for Research and Development for the Development of Africa)のハンディクラフト生産者のための新聞の編集を始めました。FRIDAでは、常勤スタッフとして広報を担当しました。FRIDAは、南アフリカのレソトでモヘア・マーケティング・プログラムを行い、モヘア製品とバスケットの貿易を始めました。その後、ロンドン、パリとマドリードで店を始め、アフリカ各地から製品を購入するようになりました。それがフェアトレードにかかわる契機となったのです!
 1980年、私の家族は、中央アフリカのマラウイへ引っ越しました。夫は、英国ボランティア・プログラムの現場指揮官になり、私は教育訓練責任者として欧州連合の関係機関で働きました。マラウイでの私達の任務が終わりに近づいた頃、オックスファムからハンディクラフト貿易の可能性の調査を依頼され、沢山のサンプルと報告書を携えてイギリスに戻りました。オックスファムの要請で東南アジアとの貿易の代表として、その後3年間、インドネシア、タイ、そしてフィリピンの生産者と会合を持ち、製品を選び、また、取引の中で起こる様々な問題に対処してきました。1986年から世界中のフェアトレード生産者を支えるオックスファムのプログラム(Head of the Bridge Program)の長を務め、世界中を飛び回り、多くの国際会議や地域会議に参加しました。
 1995年、私はIFAT常任理事会の理事に選ばれ、1998年1月専務取締役に就任し、事務局もアメリカからイギリスに移りました。それから月日が経った2003年、私は身を引くことを決断しました。IFATの取締役に就任してから7年間、組織もかなり変わり、日々変化するIFATを誰か他の情熱ある人が引っ張っていく時が来たと感じたのです。18ケ月が過ぎた2005年1月、オランダのフェアトレード団体の代表であるステファン・ダウエル氏に引き継ぐことができました。もちろん私が消えるわけではありません。様々な形で、このフェアトレードにこれからも関わって行きたいと思います。
 まず、第一に、私は今年の課題に挙がっていた品質管理システムの運営管理の作業をしています。また、多くのIFATメンバーといくつかのプロジェクトも実施中です。始めた時から、フェアトレードの世界的なネットワークとしてIFATの可能性を信じていましたが、今の状態は正にこれを象徴しているようです。私達の住む国の中にも、その周辺地域でも、そして国際的な関係の中でも、私達にできることが沢山あります。もし、フェアトレード組織がお互いに協働して知識を交換しながら事業を行えば、費用の削減ができ、しかも多くの目的達成が可能になるでしょう。また、フェアトレードに携わる人々が協働して声を上げれば、より効率的に伝えることができるでしょう。世界には多くの不公正が存在し、それが力ない人々を痛めつけています。貿易は世界中のどの人々の生活にも関わっていますが、その貿易を支配している規則は大変不公正なものです。貧乏な国よりお金持ちの国、小さな企業より大手の企業に有利です。その結果、貧困は拡大しています。だからこそ、フェアトレードが必要とされています。フェアトレードは、そこに関わる全ての人々に利益をもたらす仕事、つまり、もうひとつの道を示しています。フェアトレード生産者、そして私達は、豊富な貿易の経験を持っている、いわば、国際貿易の道先案内人です。協働することで、フェアトレード団体は国際貿易の規則を変更するための主張をすることができ、より効果的にビジネスを進め、より多くの製品を売ることが可能になります。
 このようにみてくると、IFATに所属するメンバーの最大の利点は、その所属する地域の仲間達と話ができ、他の地域の仲間とも話し合うことができる機会そのものだと思います。そして、経験、知識を分かち合い、直面した問題を討議し、お互いにその問題を解決していくことだと思います。私は、過去数年に渡って献身的に取り組み、着実に進歩してきたアジア地域のIFATメンバーの活動とそのエネルギーに感銘を受けています。アジア・フェアトレード・フォーラムは、その大成功の一つであって、フェアトレード団体認証マークの認知度を高め、製品のデザインを改善し、見本市を協働して行うなど、様々な進展がありました。IFATアジア地域会議に出席することは常に楽しみでした。私の人生で2回日本を訪問できたこと、そして、日本の若い人々にフェアトレードがどのように映っているかを知ったことは、大変光栄な出来事でした。
 日本のフェアトレードに興味を持った若者達に私が敢えて伝えたいことは、これからの人生で、たとえ多くの困難が起きようとも、初心を忘れないで欲しい、どうしてフェアトレードに興味を持ったかを常に覚えていて欲しい、そして、フェアトレードに興味を持ち続けて欲しい、ということです。フェアトレード製品を買い、公正貿易のために声を上げて欲しい。皆さんの日常の生活の中で、フェアトレードの信念とともに生きて欲しいと思います。そうすれば、私達は、生活が厳しいが故にフェアトレードのカードを必要としている多くの人々のために、より良い世界を創っていくことができると思います。

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