特集
援助から貿易へ自立への挑戦 前編
   
西ネパールの遠隔の村々で、人々の収入向上に役立っているヒマラヤンワールド・コーヒー。そのコーヒーに関わる農家は約千世帯にも及びます。現地の人々がフェアトレードに期待するもの、それは、私達の想像を遥かに超えていたと云ってよいでしょう。政治的混乱が続くネパール。その中で、人々の生活は続いています。困難な状況下で持てる唯一の希望。それが、継続的に市場への橋渡しをするフェアトレードです。 2005年2月1日、民主主義が根付かないままでいたネパールに政変が起きました。政権が王政に逆戻りした瞬間です。1週間、電話もインターネットも繋がらない状況が続き、その後、首都カトマンズはなんとか普段の状況を取り戻したものの、農村部への情報統制は続きました。
どのような政情の変化があろうとも、その国を支えるのは、一人一人の力です。人々が経済的にも力を付けること、それが明日の社会創りに繋がります。人々の生活がある限りフェアトレードは必要とされています。



遠隔の村々への貢献

ネパールの地方社会では、多くの人々にとって、まず食を確保し貧困を緩和することが急務です。山岳部では、往々にして食糧は十分に確保できていません。それは、灌漑された平らな土地が不足し、米を育てる場所も制限されるからです。急な傾斜でトウモロコシ、小麦や野菜を育て、肉やミルクを得るために、2、3頭のヤギ、鶏や水牛に飼料を与える必要もあります。その様な生活の中で、フェアトレードにより市場が見込めるコーヒー、スパイスなどの換金作物は、安定した現金収入を得ることを可能にします。そして、教育など子どもたちへの将来投資が可能になります。ネパリ・バザーロが長年関わっている西ネパールのグルミやアルガカンチの人々にとって、コーヒーはとても貴重な農産物になっています。
グルミは、1944年にネパールで初めてコーヒーが植えられた所で、その木は今でもこのアプツォール村の住民によって大切に保存されています。また、政府のコーヒー開発センターは、ネパールの中で唯一この地に設立されています。多くの政府機関が反政府勢力により爆破されている中で、ここだけは被害を受けていません。この地域は、ネパールを代表するコーヒーの生産地で、住民の誇りでもあるのです。その隣接する区域が、アルガカンチ、ピュータン、そして反政府勢力の拠点、ロルパへと続きます。ロルパに近づくほど、貧困度合いが高まります。
 貧困の原因は様々ですが、その一つに、遠方の地には開発援助が届きにくい、届いていない現実があります。外国からの援助は、このネパールではあまり効果が得られていません。厳しい見方をすれば、援助は農村部にまでは及んでいないからです。人々の生活向上には経済的自立と、そのための生産手段が必要です。幸い、コーヒー、スパイスなどの生産には大変適しています。問題は市場を見つける力がないことです。もし、ネパールの産物が適切な市場に提供できるのであれば、貧しさはそれほど問題にはならないでしょう。農村部の輸出可能な産物を作る小さな生産者の市場を広げることは、収入向上だけではなく、社会的、文化的向上にも繋がります。ネパールの基本的な要求は、援助ではなく貿易なのです。
フェアトレード団体であるネパリ・バザーロは、何年もの間、生産者グループから直接、手工芸品、紅茶、コーヒーなどを購入し続けてきました。それは、農村部の仕事の機会創出ということだけではなく、ネパールの環境を守るという意味でも大変に有意義なことです。私達は、これら小さな生産者の作った新鮮で美味しいコーヒーを飲むことで、彼らの生活の維持と壮大なヒマラヤの自然を保護できるだけでなく、私達自身も、食の安全を手に入れることができるのです。時代は、お互いが豊かになる関係を求めています。


グルミ、アルガカンチをグルミ協同組合のパルシュラムさんの案内で訪問しました。その時の様子を少しお伝えします。
      
ジバナール・カナールさんとの再会

 グルミ協同組合が扱うコーヒーの最初のメンバー、それがジバナール・カナールさん(55歳)です。彼は、グルミではなく、アルガカンチの農民です。アルガカンチには、グルミの中心部であるタムガスを経由して2004年4月、オーストラリアの有機証明機関NASAAの検査官と共に入りました。その時に、チャットラガンジーという村で彼とお会いしました。今回訪問した2005年3月11日は、まだ2月1日の政変直後で落ち着かない時でしたが、臨機応変に訪問予定を組みながら、グルミ、アルガカンチへの旅に出かけました。グルミの生産者をまわり、アルガカンチに昼頃到着すると雨が降り始めました。その雨はすぐにどしゃ降りの雨に変わり、滑りやすい細い泥道になり、私達の乗るジープも遂に動けなくなりました。予定した生産者との会談をキャンセルせざるを得ませんでした。たまたま道端にあった茶屋で雨が上がるのを待つことにしました。
 この悪天候下では、お客さんもいません。ここの茶屋と隣の茶屋で、小学生ぐらいの子どもたちが5、6人共に遊んでいました。そこで、子どもたちと話をしたり、遊んだりしながら待ちました。「腕相撲しようか!」「おじさんの腕、太いね。でも、筋肉の盛り上がりがなく柔らかだよ。ハハハー」日本語で名前を書いてあげたりもしました。しかし、寒い。山の上なので、天候が悪くなるにつれて気温もかなり下がってきました。日本では寒い3月も、緯度が沖縄に近いネパールでは、平野部であれば夏の直前で暑さが増している頃です。でも、ここは山の高いところ。2000mぐらいでしょうか。その寒さのまま一夜を過ごすのでは風邪をひきそうでした。周囲がすっかり暗くなっても雨は止まず、翌朝まで降り続けました。電気も雨が降ると漏電するので消えてしまい、ロウソクの明かりで夕食を待ちました。この先、まだ、3箇所ぐらいの場所で遠くから集まってくれた村人達が私達を待っています。彼らに連絡しなくてはなりません。激しい雨と暗くなる夕暮れの中、パルシュラムさんは休む間もなく彼らに連絡するために傘を片手に出て行きました。本当に、遠方へ来るたびに、道なき道を通り、農家を一軒一軒訪ねてまわったり、このような悪天候でも連絡に走りまわったりする彼のひたむきな姿勢には心を打たれます。
 その後、起伏の激しい山道を徒歩で2時間かけて村人がこの茶屋に来てくれました。それが、ジバナールさんとの再会でした。トタン屋根をたたく激しい雨音に包まれながら、ジバナールさんは話を始めました。
「ケルンガ村から来ました。チェリーの豆で100kgを生産しています。ネパリ・バザーロが毎年定期的に買い上げてくれるので、とても助かっています。だから、どうしても会ってお礼が言いたくてここまで来ました。家族は、5人の娘と3人の息子と妻。娘3人は嫁ぎました。畑から採れるスパイスや野菜でも収入を得ていますし、食べるために米も作っていますので、コーヒーだけに頼っているわけではありませんが、それでも、コーヒーから得る収入は家計の25%を占めます。確実に売れるということはとても心強いのです。様々な生活用品を購入することに使っています。特に、子どもたちの教育に使う計画ができるので、とても助かります。今年はコーヒーの出来が良いですよ。」

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