手摘み、無農薬栽培コーヒーの村を訪ねて

La MOMO 映像担当 日下部 信義 


ネパリ・バザーロのコーヒーの活動に映像担当として同行しました。腰を痛めそうなほど揺れる凹凸の激しい土の車道、電気の届いていない村、攻撃され黒く焼けた建物、コーヒーの生産地グルミ、アルガカンチでは日本では想像もできなかった経験が待っていました。

 街道沿いの村から、つり橋を渡り、山道を登った先にあるお宅の軒先でお茶をもらって一休みしているとき、目の前の林の中に、まるで自生しているかのようなコーヒーの木が何本もあることに気づきました。他の大きな木、小さな草花と一緒にそこにあるコーヒーの木は、色濃い緑の葉を、腕を伸ばすように広げて、つややかな赤い実をつけていました。オーガニックは「3年以上化学肥料を使っていない」、「国際機関の認証」など、複雑な規則や厳重な管理のもとに成立するものかと、コーヒーの産地グルミ、アルガカンチを訪ねる前は考えていました。しかし、豊かな自然と共存しながら成立するオーガニック栽培があることと、その大切さを知りました。


 日本で普段から愛飲しているネパリ・バザーロのコーヒーの産地、グルミとアルガカンチへ、2005年3月、映像担当として同行させて頂きました。首都カトマンズから定員20人ほどの小さな飛行機で西ネパールのバイラワへ。翌朝、ジープで舗装されている道を4時間走り、舗装の道が途絶えてから更に4時間、砂ぼこり舞う土の道を走り、上下左右に激しく揺られドアや天井に頭をぶつけながら、雨季には増水して通れなくなるであろう川を横断して、ようやくコーヒーの皮むき機のあるジョハン村へたどり着きました。大人6人と大量の荷物で、ジープの屋根へと追い出されてしまった運転助手のビルさんは、砂埃で全身黄色一色でした。
 皮むき機は、作業着の男性が操作し、隣の部屋ではサリーを着た5人の女性たちが生豆を選別していました。床に座り、大きな平ざるを上下に動かして豆を飛び跳ねさせながら、手で豆を選別していました。悪い豆を取り除いているのだとばかり思っていましたが、そうではなく、良い豆を一粒一粒選んでいるのでした。女性たちの脇にある麻袋は、選別された豆でいっぱいになっていました。もしかしたら前日、前々日から続けてようやくここまで一杯になったものかもしれません。首都カトマンズへ輸送したのち、さらに同様の選別を行うそうです。普段飲んでいるコーヒーが、これほどまでに手をかけられているとは想像できませんでした。同じフェアトレードコーヒーでも、大量生産国の大きな農園などでは、レーザーで大きさをはかるなど機械化が進んでいますが、ネパリ・バザーロは、人の手でできる仕事は人の手ですることで、村社会で女性が現金収入を得るという希少な仕事場を作っています。
 さらに奥地へ進み、主要道路から逸れて、日本でなら車で登ることは禁止されるだろうと思われる急な道を上って、山頂の村アプツォールへたどり着きました。ここはネパールで最初にコーヒーが植えられた村で、当時の木も保存されています。村の生産者たちとネパリ・バザーロ副代表丑久保完二さんの話し合いが終わり、コーヒーの木を見て回ることになりました。村の人たちがどんどん集まり、杖をついたお爺さんたちも一緒になって、生産者ひとりひとりにインタビューをし、コーヒーの木を見せてもらいながら歩きました。ジープを停めていた広場には、ちょうど学校が終わった時間のようで水色の制服を着た数十人の子どもたちが集まっていました。完二さんはたくさんの生産者と握手を交わし、また来ることを約束していました。村中の人が集まっているかのような、多くの人に見送られながら、山頂の村をあとにしました。
 グルミを抜けアルガカンチへ入り、数人の生産者を訪ねて午後になったころ、雨が降り出しました。車一台がやっと走れる細い土の道が、もっと滑りやすくなり、ぬかるみにタイヤがはまります。無理に進んだ先で車が立ち往生することになると、数日後に控えたバンダ(*)に捕まってカトマンズへ帰れなくなる可能性がありました。やむをえず、完二さんとの話し合いのために集まっていた村の人たちの所へ、中止を伝えにパルシュラムさん(グルミ共同組合でコーヒーの活動を支えている)が険しい山道を下って行きました。雨が降り続き、外気が冷え込んでいく中、通り沿いの茶屋で数時間待っていると、パルシュラムさんが一人の生産者と共に帰ってきました。ネパリ・バザーロが取引を始めた当初からの生産者で、完二さんに感謝の気持ちを伝えたいと、雨の中を歩いて来られたのでした。もう日は沈みかけていました。
 その茶屋で、ろうそくを囲んで、みんなでお茶を飲み、家族の話、コーヒーの話をしながら夕食をとりました。パルシュラムさんもビルさんも、体格からは想像できないほど山盛りのご飯を食べます。ですが、山道を一日中歩き回ることを考えると、当然かと納得してしまいました。どこでも、皿が空くとすぐにおかわりを盛られそうになるので、「プギョ(充分です)」というネパール語は、真っ先に覚えました。パルシュラムさんとビルさんは、本当にどこに入るのかと思うのですが、いつもおかわりをしていました。
 

 アルガカンチのバザールに通りかかり、一週間前に反政府勢力のマオイストに破壊された政府の建物を見ました。崩れたレンガや、壁に残る黒い煤が生々しい十数棟の焼けた建物から、大規模の攻撃であったことや、死傷者が出ただろうことが容易に想像できました。建物をビデオに収めていると「こっちも撮ってくれ」と別の建物を指差す人がいました。大きな惨事の情報も政府の規制もありカトマンズに届きづらい現状があります。ネパールには、自分の土地では家族で食べていけないほど小さな土地しか持っていない、もしくはまったく土地を持っていない家庭が多くあり、家族と別れインド、中東へ出稼ぎに行くか、小作人として働かなければいけないなどの厳しい状況があります。それだけでなく政府軍とマオイストの衝突にも怯えながら暮らさなければならない人たちの、想像を絶する苦労と不安を垣間見た気がしました。
 グルミ、アルガカンチは、舗装された道路が届いていません。凹凸が激しい道のため、ジープなどの車高の高い車でないと走ることができず、大量の荷物を運ぶ手段が少ないことが幸いして、化学肥料や農薬が使われていません。落ち葉が土に還る自然の循環が残る土地では、牛糞や堆肥を使った昔からの農業が適しています。金銭負担も少なく、生産者自身に安全であり、消費者にとっても安全です。一度農薬を使うと、虫が減り、細菌が減り、土が痩せ、肥料を加えないと栽培ができない悪循環に陥ります。コーヒーの木は自然の樹木に囲まれて自然の循環の中で栽培されています。将来、インフラが発達して、化学肥料や農薬が流入しはじめ、過剰な宣伝によって押し付けられてしまう状況が起こっても、生産者がオーガニック栽培を選択できれば、自分たちで、自然と付加価値のある農業を守っていけます。ネパリはグルミ、アルガカンチを訪れ、コーヒーを育てる生産者に直接会い、オーガニックの知識や市場の要望を伝えてきました。オーガニックを続けることで日本のネパリ・バザーロだけでなく、欧州やアメリカにも市場を開いていけると、その重要性を生産者に伝え、有機認証取得のイニシアティブを取っています。
 いつかネパールのオーガニック食品が世界に広がって、貧困がなくなる日を迎えることができる、今も自然と共存する山岳地の農村だからこそ、その可能性があると、グルミ、アルガカンチを訪ねて感じました。
(*)政治がらみで営業停止させられる日。交通機関も全て止まり、リキシャやバイク、自転車以外は動くことができない。

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