特集 SPECIAL ISSUE
スパイシーなくらし
文・ 土屋春代


収穫したマスタードを運ぶ女性


 遠くネパールから届くスパイスたち。どこでだれが栽培し、加工し、私たちの食卓まで届けてくれるのでしょう。
一粒のスパイスに、どれだけ多くの人が関わっているのでしょう。
昔、金銀より高価で戦争の種まで蒔いたスパイス。今、平和の使者としてネパールの生産者と日本の消費者をつないでいます。
 ネパールの新鮮なスパイスは香りや働きが強く、心身を活性化させます。
豊かな自然の恵みが実感できることと、作る人の顔の見える安心な食品としてファンが増えてきました。
そして、貧困に苦しむ人々の暮らしを徐々に変えつつあります。
ネパールの遠隔地で土地もほとんど無く、収入の手段のなかった農家の人々。
植えてから収穫まで数年かかる農産物では投資することができなかった人々。
数ヶ月で収穫できるスパイスならと家の周囲の僅かな空地に植えました。
首都カトマンズで厳しい生活をし、収入を必要とする女性たち。彼女たちがそのスパイスを洗浄し、包装して日本に届けます。
 スパイスの輸入を始めて7年。村まで毎年でかけ、有機証明取得に導きながら様々な支援をしてきました。
ようやく最近、はっきりとした変化を目にするようになりました。
味わう私たちも、作る人とその喜びを分かち合えます。スパイシーなくらしは元気そのものです。



シターラさんの工房から届く新鮮なスパイス


シターラさん(左から3番目)の工房にて。スタッフとネパリ代表土屋春代(左から4番目)

 ネパールで味わうおいしいカレーはとても日本人の味覚に合います。そのおいしさをいつでも誰でも手軽に作れたらと、スパイスの輸入を考えていた2000年。WEAN(注1)設立者のひとり、WEAN協同組合(注2)代表でもあったシャンティ・チャダさんに紹介されたのが、組合メンバーのシターラ・ラジバンダリさんでした。シターラさんはシャンティさんにすすめられ、スパイス事業に取り組むことにしました。
 日本とネパールでは野菜の種類が同じでも少し味わいが違います。それに合わせてスパイスの調合も違ってきます。料理好きなシターラさんはサンプルのダメだしをいくら繰り返しても直ぐに調合を変えて挑戦してくれました。何度目かで「これなら!」と云う味になりました。
 自宅の庭に小さな作業場を作り、郊外の村などから生活の厳しい女性たちを集めて仕事を開始しました。注文が増えるに従い作業場は広がり、働く女性たちも増えました。
 ネパリ・バザーロはスパイスの栽培生産者を遠隔地の小規模農家にと考え、カンチャンジャンガ紅茶農園のディリーさん、グルミのコーヒー生産者をまとめるパルシュラムさんたちの協力を得て実現してきました。有機証明を得られれば日本だけでなく、世界のマーケットに拡がるだろうと、証明取得にも取り組んできました。そして、シターラさんのスパイシー・ホーム・スパイシーズ(SHS)はカトマンズでスパイスを加工し送り出す拠点として体制作りを進めてきました。皆がそれぞれの役割を認識し果たしてこそ力のある商品が生まれます。
 シターラさんの食卓で次に取り組むサンプルの試食をしながら、共に目指す夢を語り合ったり、始めた頃を懐かしんだり、尽きることなく話は続きます。
(注1)WEAN(ネパール女性起業家協会 Woman Entrepreneurs Association of Nepal)事業を成功させた起業家9名が、他の女性たちの事業設立や成長を助けるために、1987年に設立したNGO。ネパール各地の女性起業家を対象にトレーニング、マーケット支援、貸し付け、ネットワークなど様々なサービスを提供している。
(注2)1991年に、WEANは姉妹組織WEAN協同組合を設立し、WEANでトレーニングを受けた約150名のメンバーが共同の店舗を運営するなど販路拡大の役割を果たしている。

プロビデントファンド設立
 SHSがどんなに頑張ってもネパリ・バザーロ(以下ネパリ)以外のマーケットがなかなか開けません。市場を見つけるということは小規模生産者にとってそれほど困難なことなのです。ネパリの市場も少しずつ伸びてはいますが、仕事が増えた分、まだ人を増やす段階なので、働く女性たちの給料を大幅に増やすには至りません。
 仕事は増えても待遇が改善されたと実感できぬまま働く彼女たちに、どうしたらその努力に報いることができるだろうかと考えました。「ダサインの祭りの時にサリーなどのプレゼントをしましょうか?」と提案すると、シターラさんは「やはり現金が一番」と答えました。現金を渡しても目の前のことに使ってしまうでしょうから、将来まとまったお金を必要とする時に役立つように、ファンドにするのはどうかと考えました。「プロビデントファンド(注)を作りましょう」と提案すると、シターラさんは喜び「以前から考えてはいましたが、いつ市場がなくなるかと心配で始められませんでした。ネパリから言ってくれるなら、市場が保障されたようで心強い。是非」と、言いました。長年取引をしていても、それがいつ切れるかと常に不安だったと聞き、私はとても驚きました。
 3年以上継続して働いているマヤさん、サーノマヤさん、サラスワティさん、チャイトマヤさんの4人を対象に、彼女たちとSHSが同額、ネパリは両者を足した額を出し、2007年1月から積み立てることになりました。スタートの時は働いてきた年数に応じてネパリから特別ボーナスを出しました。2年目、3年目は様子を見て、毎月の積み立て額を少し増やすことも考えます。そうやって銀行に彼女たちの秘密の預金が増えていくのです。これは、家族には言わない約束です。言えばあてにされてしまうからです。自分や家族が怪我や病気で入院、手術した時、子どもの学資でまとまったお金が必要な時など、本当に彼女たちが使いたい時に使えなくなってしまうおそれがあるからです。
 他の生産者団体も同じですが、働く女性たちは、お給料を自分のために使うことはほとんどありません。仕事場に通う交通費、おやつ代、ごくたまに買う口紅や服にほんの少し残した後、独身の娘は母親に渡し、子を持つ女性は子どもの教育費に、夫の収入が少ない人はそれで生活を支えます。自分の銀行口座を持つなど考えてみたこともないでしょう。
(注)将来に備えて積み立てる資金
金利の高いネパールではローンを借りる時は大変ですが、預金の時は助けになります。彼女たちのファンドも、3年、5年、働き続ければ続けるほど、かなりまとまった金額となって残ります。失業保険、健康保険、年金などの社会保障のない国では、このお金は彼女たちにとってどれほど心強いことでしょう。一般の銀行は口座開設にまとまったお金が要ります。金持ちしか相手にしていないのでしょう。彼女たちが預金したのは預ける人が組合員として出資し運営する共済組合組織です。


スパイスの計量をするマヤさん


生産者の家族をご紹介します


マヤさん(前列中央)の家で母(前列左)と従姉妹(後列右)。
マヤさん(24歳)
 マヤさんの父親は2人の妻と暮らしていました。最初の妻との間に生まれたマヤさんは後から来た女性を「若いお母さん」と呼び大事にしています。父親が亡くなった後、「若いお母さん」が家の一階で商う小さな店の収入とマヤさんの給料を合わせて、実母と3人で暮らしてきました。嫁いで家を出た姉たちの分も彼女は頑張って支えています。
 7年前、働き始めた頃、何を話しかけてもマヤさんは俯いて声を出すこともできませんでした。そんなか弱かったマヤさんが、今、皆をまとめ、責任者として頑張っている。何とうれしいことでしょう。ファンドの説明をする私の一言、一言に大きく頷き、「私たちも頑張ります!ネパリ・バザーロと仕事ができてうれしい。感謝しています」と言ってくれました。
 シターラさんはマヤさんに半ば本気で「結婚すると仕事に来なくなるから、結婚しないで働き続けなさい」と言い、「しばらく結婚は考えていません」と応えるマヤさん。私は「結婚しても、しなくても、あなたの生きたいように生きていいのよ。幸せになってほしい」と言いました。誰よりも結婚の大変さを知っているであろうマヤさんに、仕事を続け自分を支える収入を得て欲しいと願わずにはいられません。


アニタさん(写真右)の実家で母(写真中央)と。
アニタさん(30歳)
 設立の時から働き、SHSを支えてきたアニタさんは今、育児休暇中なのでファンド対象にはなりませんでした。嫁ぎ先の姑はアニタさんが仕事を持つことに理解はあっても、家族のために畑を守ることに精一杯で、子どもの世話を引き受ける余裕がありません。子どもが少し大きくなって仕事に復帰できる日をアニタさんは待っています。
 アニタさんに以前言われた言葉が忘れられません。「フェアトレードって何ですか?私たちの暮らし、いつ楽になるんですか?」真っ直ぐに、強い眼差しで私を見つめてアニタさんは問いました。彼女の瞳は証を見せろと迫っていました。言葉をいくら尽くしても納得してもらえないと感じ「努力しているので、その答はもう少し待って」と言うしかありませんでした。
 今、やっと少し形にできたかもしれない。まだあなたの満足のいく答えは出せていないかもしれないけれど、努力を続けています。あなたが戻ってきたら、あなたのファンド作りましょうね。

(サラスワティさんとふたりの息子たち)
サラスワティさん
彼女の収入で家族の生計を支える、一家の大黒柱です。
シターラさんと知り合いだった姑に勧められてSHSで働き始めました。


(チャイトマヤさんと夫と下の息子)
チャイトマヤさん
庭師の夫とふたりで力を合わせて働き、息子たちの教育に力を注いでいます。
上の息子は昨年のSLC(高校卒業資格に相当する国家試験)でトップクラスの成績を取ったと喜びます。


(サーノマヤさんと夫と息子)
サーノマヤさん
狭くてもシンプルにきちんと整えられた部屋で暮らしています。
家の仕事をよく手伝ってくれる夫と育ち盛りの息子。家族の将来のためにと、働く意欲が湧きます。




スパイスがつなぐ人と人
ネパールのスパイスを通し、たくさんの素敵な方との出会いに恵まれました。自分に素直に、なるべく矛盾のない暮らしをしようとしている人たち。
その、根っこにある“こだわり”はスパイスのように刺激的です。作る人から使う人まで顔の見えるつながりがもたらす心豊かなネットワーク。
今回おふたりをご紹介します。
取材・土屋春代

ここは本当に大切なものは何かを教えてくれた。 竹内宏行さん(60代)


 3年前、息子夫婦からネパリ・バザーロ(以下ネパリ)の活動を聞き、賛同し、コーヒーや紅茶をネパリのものに切り替えました。味噌まで手作りする旨いもの好きの竹内さんはスパイス料理にも挑戦しました。ネパリのスパイスが種類毎に袋に分かれているのを見て「本物だ!」と感じたからです。インドやネパールでは我が家流に調合して家庭の味を出しているのだなと納得したそうです。

 三重県鈴鹿市の竹内さんのお宅は、夏になると海水浴客で賑わう鼓ヶ浦海岸のまん前にあります。居間から見える海、凪や高波。広い空、朝日、夕日。二度と同じ風景は巡らず、見飽きぬ眺めに時間を忘れます。でも、鈴鹿を終の棲家と決めたのは、この素晴らしい風景に魅せられただけでなく、この地で出会った人々との心のつながりが竹内さんを捉えて放さなかったからです。
 新聞記者として東京、名古屋など各地で仕事をし、最後の赴任地として1999年、竹内さんは鈴鹿に来ました。社会部記者として長年、国や自治体を動かす政官界のトップを追ってきた彼が、地域に根ざし地道に活動する人々に出会いました。自分たちの暮らす地域をより豊かに、人に優しい社会にしようと、様々な分野で共生を目指し連帯する人々に感動し、敬意をもって触れ合いました。退職後も深く関わり、共に歩みたいと思いました。
 月に数回、竹内さんの居間は居酒屋に変貌し、取材で出会い意気投合した人たちが集います。この日も常連メンバーが揃いました。障がいのある人、ない人がともに演じる“バリアフリーミュージカル”を上演する団体「An-Pon-Tan」代表、障がい者施設職員の小川直大さん。シックハウス症候群を取材する中で出会った下浜光行さんは、森林を再生し地域の自然を守ろうと、地元材で家を建てる大工の棟梁。竹内さんの家も下浜さんが建築しました。全国水墨画展で大賞を受けた水墨画家、直魅さん。富良野塾の芝居を上演する市民の会を組織する美しい“おばば”。個性的な皆さんの飲み会は深夜まで盛り上がりました。


写真左上から、下浜さん、おばば、竹内さん、直魅さん。左下から、土屋、小川さん。

ネパリの活動精神と私の想い、つながっているなと直感しました。 紀國なつみさん(30代)

親子でネパリの服をよく着るそうです。写真左が紀國なつみさん。

 穏やかな表情の中に意志のはっきりした強い瞳が印象的な、自力整体のインストラクター。指導者として埼玉県越谷市に教室を構えて4年目で、生徒がどんどん増えて140人になりました。体調を整える働きがあるスパイスを使った食事は、整体とともに健康法の実践には欠かせません。ネパリ・バザーロ(以下ネパリ)の新鮮でおいしいスパイスを通して活動にも共感した紀國さんは服や雑貨など他の商品も大好きになりました。何かもっとネパリと直接関わりたいと思い、カタログのモデルに応募し、2006年の冬カタログの特集イメージモデルとして登場しました。
 紀國さんは以前から健康に関わることに興味があり、7年前、資格を取ろうとマッサージの学校に入り、卒業後、指圧と足裏マッサージのお店で働き始めました。その後ハーブ療法など様々な施術に興味を持つうちに自力整体と出会いました。自力整体の提唱者、矢上裕さんは鍼灸院を開業しましたが、整体、ヨガなども学ぶうち「自分の健康を守れるのは結局自分」と云う考えに至り、自力整体を編み出しました。紀國さんは自力整体を体験して、体のゆがみを直し、整え、筋肉の緊張を和らげ、凝りやはりなどの痛みをとる優れた健康法だと感じたことももちろんですが、その根本の考え方や教え方にも惹かれました。組織化したり権威を作らず、学びたい人には誰にでも教え、初心者とベテランというように分けず、誰でもやる気になれば人にも教えられる自力整体は体も心も自由に解放します。
 紀國さんは指導者研修で初めて矢上さんのレッスンを受けた時、あまりに楽しげに、うれしそうに教える様子に、それほど楽しいことならやってみたいと強く思ったそうです。自分のやりたい仕事は人に喜んでもらえて自らも楽しめること。仕事だと割り切って感情と切り離して生きていくのはもったいないし、苦しくなるので嫌だと。
 最近、生徒が増え、指導者を目指す人も数名出始め、仕事の手応えを感じ、ますます楽しくなってきました。たくさんの人が自分の体を痛みから解放し、最期までその人らしく暮らせる社会。老いることを恐れず、安心して生きていける社会になればいいなと思うそうです。


教室で教える紀國なつみさん。

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