特集 地域開発
人が人らしく生きるために

文・ 丑久保完二(ネパリ・バザーロ副代表)

コーヒー栽培地域と押し付けられた身分制度

 1944年に初めてネパールに植えられたコーヒーの木。それは、西ネパールのグルミ郡のアプツォール村に今でも繁っています。そして、今日、コーヒーは、東のイラム郡、パンチタールまで広がりました。
 ネパリ・バザーロ(以下ネパリ)によるネパール・コーヒーの取引は、1994年に遡ります。初めての輸入は、600キロでした。JETRO(注1)の貿易白書のネパールからの輸入実績にもその数値が記されています。以後、今日まで継続して輸入が続いています。グルミとのお付き合いは、輸入を開始して4年後の1998年から今日までに至っています。私たちが取引を始めた頃、グルミのコーヒーは市場がなく、あきらめて木を切ってしまうほどで、隣接するパルパ郡のコーヒー収穫量よりも少ない状況でした。隣のアルガカンチ、ピュータン、ロルパ郡を含め、コーヒー生産地としては最も奥地で、流通面でハンディがあったためでもあります。当時、私たちは、ネパール・コーヒーに絡む仲介者との関係に手を焼き、この分野からは撤退しようかと迷っていました。しかし、「市場がなく困っている人々はまだまだいる」という声に動かされ、ネパール国内のコーヒー生産状況の調査を始めることにしました。西ネパールから東ネパールまで訪ね歩き、最終的には、ネパール全国生協連盟(NCF)からの紹介もあり、グルミ協同組合連盟との直接取引が始まったのです。
 初めてグルミに行った時は、私たちの資金が少ないこともあり、カトマンズから窓ガラスが割れた夜行バスを乗り継いで行きました。当時電気が来ていたグルミ郡の最奥地、ジョハン村からさらに奥に入った村で一泊。車が通れず、徒歩で入りました。そこは湿度の高い谷間で、宿泊した翌日は、首の周りは蚊に刺されて真っ赤になってしまいました。早朝に川岸で蚊に刺された首を冷やしながら顔を洗っていると突然、白馬にまたがった男性が現れました。前日に送った伝令で駆けつけてくれた、グルミ郡のコーヒー連盟代表、ゴータムさんでした。彼は私たちの努力に深く感銘し、協力を約束してくれました。しかし軌道に乗せるのは容易ではなく、以後数年はカトマンズからジープで現地まで数日かけての訪問を繰り返しました。グルミの中心部に近づくに従い、ドライバーがマオイストの脅威を感じ、恐れてそれ以上は中へ入りたがらなかったものです。
 このようにして始まったコーヒーも、国際規格の有機証明を取得するまでになりました。そして、現在は、隣のアルガカンチ郡で有機証明取得のため、農民への技術トレーニングを行っています。市場も広がり、2005年には、ネパール・コーヒーの輸入に興味を示していた韓国のNGO、ビューティフル・ストア(以下BS)に働きかけ、様々なアドバイスと協力をし、生産者とBSの直接取引を成功させました。ネパール全土のコーヒー生産量はまだそれほど多くはなく、2007年に私たちが輸入予定の生豆は約15トン、韓国8トン、ネパールで採れるコーヒー全量の50〜70%に相当します。
 コーヒー取引当初から続いていた約10年に及ぶ内戦は、2006年11月21日の和平協定をもって、まずは落ち着きました。そして、2007年3月には、カースト制による差別禁止の法律が制定されました。ヒンドゥー教徒が過半数を占めるネパールでは、一般的に男尊女卑思想が強く、村落部にいくほど、その傾向は強まります。しかし、マオイストの拠点になった西ネパールのロルパ郡のマガール民族や東ネパールのリンブー民族などは比較的男女平等の思想に近いといわれています。紅茶やコーヒーの取り組みでそのベルト地帯の人々と付き合う時、紛争が起きた背景にも直面せざるをえませんでした。生まれながらに固定される身分制度のヒンドゥー教、蔑視される低カーストや女性という構造、その象徴である国王や国軍への激しい怒りが「貧困とカースト」に対する闘いを生んだことを理解しました。
 和平協定が真の確固たるものになるには、身分の上下がなくなり、且つ、収入が向上する道を切り開かなければなりません。内戦が激化するまでは、ロルパは、質の良いコーヒーが採れる場所でもあったので、コーヒーもこの期待を担っています。権力のために利用されず、小規模農民の利益に寄与するための戦いは、続いています。東が民主的な対話から明日を考えるとすれば、西は、上からの声でしか動かない、上下関係の圧力構造の中に今も根強くあると感じています。それだけ交渉も難しく、仲介者の妨害工作にも乗りやすいのです。しかし、この困難を乗り越えなければ民主的な明日は到来しません。この挑戦はさらに続き、スパイスというNTFP(注2)の栽培にも力を入れ始めています。より多くの人々に収入を得る機会を作るための新たな試みです。誰が作ったかを知り、流通を知ることは、私たちの食の安全をも意味します。


韓国のハンスーンさんを伴って
 2006年1月18日、韓国のNGO、BSバイヤー、ハンスーンさんを連れて西ネパールへ向かいました。まだまだネパリが連絡や調整など仲立ちをすることが多いのですが、今後、韓国とグルミ協同組合連盟やアルガカンチの農民と直接お付き合いをして欲しいとの願いからです。この時期は、年間で最も寒く、朝は濃霧のため飛行機が欠航し、午前11時のフライトが実際に飛び立ったのは午後4時近く。1時間弱のフライトでグルミに一番近いとされる平野部のバイラワ空港にやっと到着。そこでは、しびれをきらせたグルミ協同組合連盟のパルシュラムさんが待っていてくれました。急ぎ、村から呼んだジープに乗りましたが、出発時間の大幅な遅れで、パルパを超えグルミ側のディリーバザールに着いたのは既に夜の10時過ぎ。これでは泊まるところを探すのも大変で、なかなか見つからない。仕方なく、夜更けの道を飛ばし、ジョハン村の常宿に着いたのは深夜1時過ぎ。野犬が歩き回る路上で戸を強く叩き、大きな声で、寝ている宿の主人を起こし、やれやれと、やっと眠ることができました。
 翌朝は、多くの農民が皮むきセンターに集まっていました。コーヒー豆の選別をする女性たちもいます。嬉しい再会ですが挨拶もそこそこに、周辺の農家を訪ね歩きました。その後、ジープに戻り、一路、グルミの中心、タムガスに。到着したのは、またもや夜11時過ぎ。その翌日からアルガカンチに入るのですが、朝から夜10時頃まで、歩きづめの過密スケジュールでした。ここへ来る前に不覚にも体調を崩してしまった私には、これは厳しい旅でした。懐中電灯を車内に置き忘れ、暗い夜道で、足は挫くし、小さな飛石を渡る川でも、冷たい水の中に落ちてしまうなど惨憺たるものでした。
 
 今回の主目的地、アルガカンチ入りしてから2日目にようやく、サンデイ村に到着しました。ここは90%がローカースト(ビカ、サルキ、ダマン)と言われる人々の村です。耕作面積が比較的小さく、暮らし向きも厳しさを感じましたが、お互いに協力しあいながら生活していることが印象的でした。内戦状態の時に、何度もここまで来る努力をしながらも、道路封鎖などの影響で訪ねることができなかったところです。ここでは、クミン、ピプラなどスパイスの栽培が盛んで、農民たちも、その販路が広がることを願っています。コーヒーの木は、少量ですが、どの家庭にも植えられていました。近隣の小学校に行くと、粗末な木で作った大きな校舎があり、ここで学ぶ子どもの多さが実感できました。夜になると、村人がマダルを持って集まり、歌と踊りを披露してくれました。私も、踊りたかったのですが、体調が悪く、翌日のためにエネルギーをセーブせざるを得ない状態でした。まるで王様のように特等席が用意されていました。皆さんの気持ちに感謝をしつつ、この次には一緒に踊るよ!と心に誓っていました。翌朝、必ずまた来ることを約束し、この村を後にしました。
 人口約600人(103家族)のラクリダダ村に到着すると、地区の協同組合の代表を務めるクリシュナさんが、コーヒー生産者と共に集まってくれていました。彼も自ら100本のコーヒーの木を有する生産者です。このようにして、それぞれがグループになっている協同組合を訪ね歩くのも、今回の目的の一つでした。次回は、各地区の協同組合代表の方々にタムガスに集まってもらい、様々な課題を話し合うこと、その次は、訪問先を一箇所に限定して、そこに暮らす人々の生活を詳しく知ること。さらに奥地のブラックペッパー生産者を訪ねることを確認しあい、この旅を終えました。     

(注1)JETRO:日本貿易振興機構。貿易・投資促進と開発途上国研究を通じ、日本の経済・社会の更なる発展に貢献することをめざし、2003年10月、日本貿易振興機構法に基づき、前身の日本貿易振興会を引き継いで設立された。外国企業誘致支援、日本企業の輸出支援、地域経済活性化支援等の活動を行なっている。
(注2)NTFP: Non Timber Forest Product。畑や荒地でも栽培でき、成長も早く、環境にやさしい植物。


写真中央がネパリ・バザーロ副代表 丑久保完二。

真冬のコーヒー村を訪ねて
裸足とサンダル
文:日下部信義(LaMoMo 映像担当)

 約2年ぶりに訪ねた皮むき機のある建物で、前よりもたくさんの人に歓迎を受け、打合せや豆の選別状況の確認をし、集まった生産者の方たちの畑を訪ねて歩くことになりました。川向こうに渡らないといけないのですが、近くに橋はなく、乾期で水が減っているとはいえ、浅くても膝下まであるところを、私たちは、川の中に入った生産者の方に手を引いてもらって飛び石伝いに渡りました。自分の登山用の靴は川の石の上を歩くにはまったく役に立たず、ツルツル滑り、手を引いてもらっているにもかかわらず両足とも川の中へ落ちてしまいました。ビデオが落ちなかったのが幸いでした。1月はネパールでも真冬の時期にあたるのですが、ジョハン村では裸足や、サンダルの人を多く見かけます。増水したら渡れないであろう川の中を、毎日使う生活道路として使っているようでした。裸足やサンダルなので、わざわざ石の上を歩かず、赤ちゃんを抱えながら、野菜を背負いながら、ジャブジャブと川の中を歩きます。
 畑のあぜ道、砂利の山道を登り、水が流れた跡のような急で細い道を下ったりしながら、川で手を引いてくださった方のお宅へ向かいます。途中で通り抜けたジャングルのような、小川沿いのコーヒー畑は、6軒の農家が協力して育てていました。川から、ずいぶん山を登り、皮むき機の建物が遠くに望めるところにある目的地の畑では、村のみんなで使うように苗も育てています。チヤを頂いてご家族と挨拶をして山から下り、午後2時ごろ遅めの昼食を食べました。すっかり歩き疲れていたので、この後は次の村へ移動する車の旅だけだといいなぁという淡い期待を持ちましたが、あっさり裏切られ、車で10分ほど走った所から、つり橋で川を渡り、細い山道を延々と歩き、次の農家へ着いた時には日は沈み始めていました。集落から離れた家での暮らしぶりなどをご家族に聞きながら軽食を頂いた後、小さなライトを頼りにして、真っ暗闇の山道を下りました。
 別の日、生産者のお宅の軒下にみんなで並んで座り、フライパンで煎ったコーヒーをご馳走になったとき、その方の足の裏が、ひどいあかぎれで、まるで古い土器のようになっていることに気づきました。子どもの時から裸足で走り回って、きっと足の皮のつくりが違うのだろうと思っていたので驚きました。学校へ行く前の小さな子が、裸足で走り回るのをよく見かけても、足の裏も鍛えられるなぁ〜と、単純に考えていたのですが、足を守るための履物を買うことが村の人にとっていかに贅沢なことかがよく分かりました。
 冬にこの地へ来てみて改めて感じたのですが、昼は暖かいけれど朝晩は冷え込む環境で、密閉性の低い家に暖房は薪以外なく、毛布や布団が十分あるとは言えない村の状況はとても厳しいものがあります。朝4時、5時に起き、夜は8時から9時ごろに寝る生活は、そんな環境で寒さを避けるために必要なリズムなのだと思いました。今回の真冬の村への旅は、ネパール遠隔地に住む人々の状況をさらに知ることができた旅でした。


コーヒーの村を訪ねて
ネパールからの報告メールより
文・写真 土屋ひろみ(La MoMo 写真家&デザイナー)

    〜 1日目〜
 グルミ、アルガカンチへの旅出発の日。飛行機が遅れたため、バイラワ空港へ5時間遅れての到着になりました。5時間待たされたパルシュラムさん(グルミ協同組合専務理事)は、疲れた顔を見せずに、ビッグスマイルで歓迎してくれました。その後ジープを飛ばしましたが、夜10時になっても空いている宿が見つからず、さらに走ることになりました。ジープは歪んでいて窓は閉まらず、足元にあいている穴から入ってくる風でとても寒かったです。ひどく揺れるので車酔いをしてしまい、道の脇でも、真ん中でもいいから眠りたいと思いながら、結局、宿に辿り着いたのは夜中12時過ぎでした。顔を庭の水道で洗って、寝袋に入ってからは、安心感であっという間に眠ってしまいました。
    
    〜3日目〜
 サンデイという、ローカーストの村で、一晩泊まることになりました。夜には、村の皆さんでマダルと笛と歌で歓迎の宴を開いてくれました。外での生演奏と踊りはすごく楽しかったです。隣にいた女性が寒そうに手をこすり合わせていたので、「寒い?大丈夫?」と話しかけたら、あっという顔をして、「あなたが寒いんじゃないの?これ被んなさいよ」と自分の被っていたターコイズブルーのきれいな毛糸の帽子を私に被せてくれました。帰りがけに「あなたの大切なものだから、これは返しますね」とお礼を伝えると、「だめだめ!今は寒いんだからこれを被っていなさい」と受け取ろうとせず、日本へのお土産として、その帽子をプレゼントしてくれました。私の宝物です。
    
    〜 5日目〜
 5日目の夜はコーヒー農家に泊めていただきました。私はサクンタラさんという女の子のお部屋をお借りして、夕飯もご馳走になりました。ネパールでは、お客さんが食べ終わった後に、やっと家族の皆さんが食べられるという習慣があるのですが、私はこの習慣が嫌いです。お部屋も借りて、ご馳走にもなっているのに。一緒に食べたいなぁと思います。私たちだけで7人もいたので洗い物も多く、寒い台所の冷たい水で洗ってもらっているのが申し訳ないので洗い物を手伝わせてもらいに行きました。お母さんは笑って「慣れているからいいよ!」と追い返すのですが、その後何度かチャレンジして、手伝わせてもらいました。お母さんと娘さんと「寒いねぇ」と言いながらのお皿洗いでした。パルシュラムさんが「どうして客なのにそんなことするの?」と、不思議そうにしていたと後で聞きました。手伝って悪かったかなと思いましたが、「日本式」ということで良いかなと思います。朝は部屋の隙間から入ってくる、朝ごはんを作る煙で燻されて起きました。
 ネパールの村へ行くと、男性優位社会だと強く感じます。特に西ネパールは、東ネパールよりも強いようです。男性の荷物は、村の人が手伝って運んでくれても、女性にはあまり声をかけてくれません。村の女性が体より大きい荷物や重い砂袋など、山道を運んでいるのを見かけます。年配の方で何回もお会いしたことのあるチャットラさんのお家で、ティカ(お祈りの時に額につける赤い粉)と花輪の歓迎を受けましたが、ここでも「男性には私がティカをつけるけれど、女性は自分でつけてね。花輪も自分で被ってね」と言われます。私はネパールの中でも、特にグルミ、アルガカンチが好きなのですが、一方通行の片思いのようです。
    
   〜ふりかえって〜
 あるコーヒー農家の女性と、村の帰り道、一緒にジープに乗りました。世間話をしていると、「生活が大変だよ。どうにかしてよ」と言われました。「あなたのおかげで、日本ではおいしいコーヒーが飲めます」と感謝の気持ちを伝えると、「飲むほうはいいけれど、こっちの生活は大変だよ」と彼女が言いました。なんて言葉を返したらいいんだろう、とすごく悩みました。実際に村の生活は良くなってきているといっても、まだまだ辛い現状で、大変なのは彼女たちです。「あなたのお話を聞いて、いろんな人に話して、カタログでも紹介して、たくさんコーヒーが売れるように日本でも頑張るから、一緒に頑張ろう」とガッツポーズをしたら、その方も一緒にガッツポーズをして「一緒に頑張ろう、頑張ろう」と笑って言ってくれました。何を言っても無責任と言われてしまうんじゃないかと思いましたが、彼女の優しさにすくわれた気がしました。
 ある家で、おばあさんが別れ際に私の顔に手を添えて語りかけてくれました。私の大好きな祖母が生前、よくそうして手を添えて話してくれたのを思い出しました。どこの村でも、ネパリ・バザーロという手作りの看板と、笑顔と歓迎のティカを頂きます。そのティカやおばあさんから頂いたあたたかいメッセージにいつかお返しできるといいと思います。

        


ネパールコーヒーを支える焙煎職人
潟tレンドコーヒー 取締役常務 萩谷謙三

横浜市港南区の一角にフレンドコーヒーの焙煎工場があります。「ヒマラヤンワールドコーヒー」は、ここで誕生しました。1994年9月15日、ネパール初のコーヒーの植物検疫証明を受け、日本への輸入が始まりました。コーヒーの風味の大半を決める重要な焙煎ですが、輸入を始めた頃は知り合いもなく、数箇所の自家焙煎の喫茶店に相談する中でご紹介を頂き、フレンドコーヒーの萩谷謙三さんと出会いました。ネパールの農民の事情と私たちの想いを知った萩谷さんは、「よし!それなら特別価格で引き受けるよ」と、即座に応えてくださいました。年1〜2回程度だろうと解釈されていた萩谷さんも、当初から月に数回お願いするので、その量には驚かれたそうです。パッケージ選びや、新鮮さを保つための様々な工夫なども教えていただき、大ヒット商品になりました。農民も私たちも手探りで始めた最初の頃から、格段に質が上がった現在まで、いつも美味しいのは、その時々の豆の状態を活かした焙煎だから。萩谷さんの常に研究を怠らない職人気質と熟練の技のおかげです。


萩谷さんを支えている古明地 明代さん(左)

(株)フレンドコーヒー 
事務所:神奈川県横浜市
磯子区森1-2-1
Tel:045-751-2621
焙煎工場:神奈川県横浜市
港南区港南台7-41-10
Tel:045-831-0888


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