紙布の服。



ネパールのロクタ(沈丁花の一種の潅木。ネパールの標高1200m〜3000mの丘陵地帯から高地にかけて育つ。
1000年以上も昔から最も重要な紙の原料として利用されてきた)から作る純度の高い手漉き紙、ロクタ紙の販路を広げ、
人々に仕事の機会を創るため、その紙から紙布を織り、服に仕立てようと始めた、ネパリ・バザーロの「紙布プロジェクト」。
昔日本でも、極貧に苦しんだ農民たちが、貰い受けた反故紙から布を織り、野良着に仕立て、寒さから身を守っていたそうです。

細く切った紙に、強い撚りをかけて紡ぐのは、気の遠くなるような作業です。
しかし、ヤングワオ代表のウシャさんを始め、働く女性たち自身が工夫と努力を重ね、2006年春、ついに紙布の服が誕生しました。
 その後もウシャさんの向上心は留まることはありませんでした。紙布発表の際、ウシャさんを日本に招き、
沖縄にお連れしました。その時ウシャさんは、とんぼの羽のように透き通る美しい絹の布、
「あけずば織り」を織られている上原美智子さん(まゆ織工房主宰。世界一細い絹糸(3.7デニール)で織る「あけずば織り」は、
5メートルの布がわずか5g、天女の羽衣はかくやと思う美しさ。「あけずば」とは沖縄の言葉でとんぼの羽のこと)や、
「芭蕉紙」を製作し、保存に尽くされている
安慶名清さん(手漉琉球紙工房「蕉紙菴」主宰。琉球王朝時代から作られた沖縄独特の紙、芭蕉紙を漉き続ける)にお会いし、
豊富な経験から得たお二人の知識を貪欲に吸収しました。帰国後、自ら紙の漉き方の研究を重ね、
これまでの5g紙よりもさらに薄い、わずか3gの紙を漉くことに成功しました。
ふわりふわりと宙に浮くほど、軽くて薄いロクタ紙です。
「春代さん、この糸見てください!きれいでしょう」
ウシャさんは、3gの紙糸を宝物のように大切に扱い、そっと見せてくれました。3gの紙から糸を紡ぐのは、
5gの紙以上に集中力を要します。ちょっとした力の入れ加減で、糸がぷつりと切れてしまいます。
皆が惜しみない努力を続け、ついに細くて美しい糸を紡げるようになりました。
女性たちはうれしくて、うれしくて、自分たちが紡いだ糸に見とれていたそうです。
織ってみると、しわもとてもきれいに現れるのがうれしくて、大変な作業でも皆喜んで紡いでいます。
 様々な方向を向きながら絡まり合った、ロクタの繊維からなる紙布は、細い糸の中に空気をたくさん含み、
私たちの身体を暑さや寒さから守ってくれます。その上ふわりと軽く、肩もこりません。
  優れた特性を持ち、たくさんの人の想いが織り合わされた紙布の服。ぜひ一度、羽織ってみてください


紙布の工房 ヤングワオ セービングファンドとダナマヤさん 〈文・土屋春代〉
                   
ダナマヤさんと。
スパイシー・ホーム・スパイシーズ、コットンクラフトに続いて、 ヤングワオも2009年1月からセービングファンド(財形貯蓄)を始めました。 縫製部門を立ち上げ、紙布の生産者としてだけでなく、様々な仕事ができるようになったヤングワオ。 その体制をしっかりさせ、女性たちが長く安心して働ける職場にするための 福祉プログラムの柱としてスタートさせました。1年以上在籍し、今後も長期に働く意思のある人、14名が対象です。  皆さんの年齢は20代から40代ですが、お一人だけ飛びぬけて高齢の方がいらっしゃいました。 いつもにこにこと笑顔を絶やさず、周囲を明るくしている太陽のようなダナマヤさんでした。 80歳に近いのですが、それはもう元気なこと!   友人の小さな部屋に同居していたダナマヤさんはヤングワオのことを知り、自分も働きたいと願い出ました。 年齢を知って驚いた代表のウシャさんも仕事に対する強い意欲と事情を知り、働いてもらうことにしました。 ダナマヤさんはゴルカ兵の夫をずいぶん前に亡くし、一人息子はマレーシアに働きに行ったまま行方不明。 その妻は既に新しい夫と別の家庭をもち、残された2人の孫たちの学費を亡き夫の遺族年金から 学校に払い続けているので、住む所もなく、自分の生活費を稼ぎたかったのです。  ダナマヤさんはよくおやつにバナナを持ってきては、一人で食べずに皆に配っていました。 「私のバナナは?」と聞くと、「早く来ないからなくなっちゃったよ。この次ね」と楽しそうに笑うのでした。 屈託のない笑顔の裏に深い悲しみがあることに最初は気づきませんでした。 息子さんの消息をいつも気にして、見かけたという噂を聞いては喜び、 もう亡くなったよという情報を聞いては涙にくれていたそうです。 10年間のファンドの目標額を設定し、毎月の積立額や年度末ボーナスなど細かい数字の詰まった表を渡しました。 ウシャさんが皆を一室に呼び集めてファンドの説明をしていた時、「80歳の私も10年?」とダナマヤさんが 自分の鼻を指差しておかしそうにクスクス笑い、そのおどけた仕草に皆大笑いしたそうです。 その話を聞いて、「ダナマヤさんだけ5年に短縮し、ネパリからの積立額を増やしましょう」と提案しましたが 「他の人と違うと却って嫌がる」と云うウシャさんの意見でした。 私は亡き母が区役所からいただいた祝い金を思い出しました。 「日本には長寿のお祝い金というものがあるので、お祝いの形にしましょう」と言うと、 それならダナマヤさんも他の人もきっと喜ぶからと決まりました。 でも、お祝いを待たずにダナマヤさんは2009年5月、帰らぬ人となってしまいました。 最期は親類の家族に手厚く看取られ、安らかに逝かれたそうです。ファンドを医療費に充てていただきました。  苦労の多い人生だったと思いますが、負けずに強くやさしく生きたダナマヤさんは、 ヤングワオで働き多くの仲間を得たことをいつも神に感謝されていたそうです。 糸車の前に座るダナマヤさんの姿が忘れられません。ご冥福を心よりお祈りいたします。

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