ミティーラアートの世界


ジャナカプールの伝説とミティーラアート

ネパールがたくさんの小国に分かれていた頃、タライにMaithili(マイティリ、特に絵を指す場合はミティーラと発音)という王国があった。ジャナクという英明な王が支配していた時、王女のシータがラムという神様に嫁ぎ大変に栄えた。この頃からジャナカプールと呼ばれるようになったというヒンズー伝説の町である。王女を奉ったジャナキ寺の祭りには毎年全国からたくさんの参拝者が集まる。その美しいムガール様式の寺はネパールというより、インドを連想させる。人々の顔もよく似ている。肌の色の黒い、目の大きなアーリア系の民族の彼らは話す言葉もマイティリ語、女性のサリーの着方もカトマンズと違う。カトマンズと大きく違うのは車の台数。空港に着くと我勝ちに客を乗せようと近づいて来るのはサイクルリキシャだ。町の中心のホテルまで走って10分。その間にすれ違う車は数台で、自転車、バイクが多い。もちろん殆どの人はひたすら歩く。外国人は珍しいので、ジロジロ見られる。始めてのネパール訪問でいきなりジャナカプールへ連れて来られた人は、強烈な印象を持つ。
 リキシャで揺られながら左右の家を眺めると伝統的な土壁の家が目に入る。竹で枠組みを作り、わらを混ぜた土で塗り固めてある。白く乾いたその壁に象や鳥、人など、独特なマイティリの絵(ミティーラアート)が描かれている。単純な線で伸びやかにアウトラインを引き、陰影をつけず鮮やかに彩色して行く。代々、母親から娘に伝えられ、神々や動物、結婚式のような華やかな祝い事などを家の外壁や内壁に幸せを祈って描き継いできた。
カトマンズに住むジャナカプール出身の知人に聞くと、昔はどの家にも象がいて移動に使った。しかし飼いきれず,今では余程の金持ちの家でないといないという。壁画によく象が描かれているのはそのためか。昔は身近な動物だったのだ。

 JWDC/JACの果たしてきた役割

 ジャナカプールの女性達の受け継いできたアートを商品化し、少しでも彼女らの収入を確保しようと1989年JWDCが設立された。9年前に現在のクワ村に移った。空港からも近く、広い敷地にジャナカプールの伝統的な家々がセクション毎に分れて並び、真中にチョウタリ(菩提樹等の大きな木の下にある休憩スペース)もあり、明るく健康的だ。アメリカ、カナダ、日本からの援助も多く、入りたい女性たちがたくさん待っていた。以前募集した時も数倍の応募があり、面接で15人に絞った。今ではメンバー80人が絵を描いたり、Tシャツやクロスにプリントしたり、茶碗やカップなどの焼き物を作ったりと働いている。

JAC、初夏の風に吹かれて
 3月のジャナカプールは初夏の陽気だ。空港から力車に揺られて吹く風が心地よい。カトマンズが肌寒く、朝夜はセーターを着るほどなので、半袖に着替えて身軽になると動き回りたくてウズウズしてくる。
 バザールの真ん中にあるホテルからJACまでは歩いて数分だ。有名なジャナキマンディールやラーマ寺院を見ながらブラブラ歩く。
 ラーマーヤナ伝説に彩られた町、寺院と池と原色の絵が目立つ。華やかで賑やかな町の中心から少しそれるとJACの建物が池を背に静かに佇んでいる。
 JACでは34人の女性が働き収入を得ている。17人が通いで、17人が家で仕事をしていた。
  
アジツさんとJAC設立
 最初にJACを知り、代表のアジツ(37才)さんを紹介された時、ミティーラアートと言えば女性と思い込んでいた私は、「えっ!」と正直びっくりした顔をしたらしく「ご期待に添えなくてごめんなさい」と笑われた。
 デザインの打合せをすると、打てば響く反応に驚く。彼からもどんどん提案が来る。お互いに相手のアイディアに刺激を受け、最初に描いていたものよりイメージがふくらみ、良いものができあがっていくのはうれしい。
 今度はどんなことを考えてくるだろうか、とか、このアイディアを話したら何を言うだろうか、とか、会うのがいつも楽しみだ。
 5人兄弟の下から2番目に生れたアジツさん。彼は幼い頃、父親からよく叩かれ、ダメな息子という烙印を押され苦しんだ。絵が好きで、部屋で絵を描いてばかりいる息子に「男らしくない」とがっかりし、小さいながらも日用品店を経営する父親は早く商売を覚えて独立して欲しいと願った。
 やがて店を与えられたが、1年で失敗し、好きな絵を習いたがる彼を、父親はとうとう勘当した。
 親から自分を否定され、家も追い出され絶望したという。しかし、やがてそんな中からも彼は少しずつ自分の道を見つけ始めた。やはり好きな絵の道に進もうと思った彼は、ネパールで有名なタンカ(仏教画)を習うチャンスがあり、喜んでカトマンズへ行った。しかし、師は「おまえの絵は他にある。ジャナカプールの人間はミティーラアートを大切にしなさい」と諭したという。
 自らの役割を自覚した彼は村々を回り外壁に描かれている絵をスケッチし始めた。昔は夫に大事にされるようにと殆どの女性たちが刺青をしていたが、今では刺青をする女性たちもずいぶん減ってきた。そのデザインをひとつでも多く記録しようとノートを埋めた。
 ミティーラアートに精通するようになったアジツさんは希望者に教え、それで何とか自力で生活できる目途もたった。勘当された父親にも許され、両親のすすめるリナさんと結婚し、息子ひとり、娘ひとりも授かり、順調な生活を送るようになった。
 しかし、村を回り絵の研究をする間に、女性たちの厳しく辛い生活を知ったアジツさんは、自分だけの幸せに満足せず、彼女たちの収入に結び付けることのできる仕事を始める決心をした。
 JWDCで何年か仕事をしたことのあるビーナさんとも出会い、彼女の経験に助けられ1994年、JACを設立した。
 どの様な商品を考えれば売れるか、私達も様々な商品開発を試みてきた。それが将来の自立に繋がることを願って。


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