特集 ダカ織りを訪ねて

織りは、太古の時代の洞窟の絵とともに、世界で最も古い芸術のひとつといわれています。
織りは、その素朴さの中に、民族、宗教、個性を表し、文化的な営みとして、人々の生活に融合してきました。
全ての布の織り方や模様は、新旧を問わずその伝統によって違います。
今回は、ネパールのダカ織りを訪ねてみました。

南部平原地帯への大規模な移住が始まるまで、ネパールの人々の多くは、北部ヒマラヤ山脈と南部平野地帯の間、西から東へと伸びる中間山岳地帯で生活していました。最も高い山々は一部を雪に覆われ、それよりも少し低い山の頂上はハイマツに覆われています。山の中腹を走る道路からは、両岸が険しく切り立った壮大な渓谷の急流を目にすることができます。気候が亜熱帯から冷帯へと変化するこの環境の多様性は、豊かな自然の宝庫です。
 この地域で暮らす民族は、この土地で育つさまざまな原料を使って織物を作ってきました。その中でも、この地域に住み、ネパールの歴史に何千年と関わってきたといわれるライ族とリンブー族の女性たちは、ネパールの伝統織物ダカの織り手です。このダカ織りは、ネパールの数多くの織物の中でも最も素晴らしく、目に触れる機会の多い織物です。複雑な模様とカラフルさが特徴のこの織物は、男性用のトピというネパール帽子や女性用のスカーフなどに使われます。伝統的には黒、白、赤、オレンジといった色が使われますが、トピにしてもスカーフにしても二つとして同じものはありません。すべての作品が、織り手の創造力によって、すべて異なった図柄に仕上げられるからです。
 ダカ織りの名の由来については、様々な説があります。「バングラデシュのダッカから戻った聖職者が持ち込んだから」「単に織物や織り糸がダッカを経由して持ちこまれたから」、また、「ダッカの綿モスリンがネパールの織物に似ていたから」という説もありますが、ダッカ周辺で織られる布の手法はネパールのものとはずいぶん違います。その他にも「当時のイスラム教の侵略から逃れ、ネパール周辺や国内に移り住んだヒンドゥー教の織り手の影響を受けたから」という説もありますが、ダカ織りの主要な産地テラトンは、国境周辺に位置しているわけでもありませんし、ごく最近までは足を踏み入れることさえも難しい地域でした。
 近年では、工場で生産された織物が伝統的な手織りのものに取って代わってはいるものの、ダカ織りの布の需要がなくなることはありません。男性は収穫祭、新年、ダサイン(ヒンドゥー教三大祭りの一つ)といった特別な日には新しいトピを買いますし、結婚式には新しい柄のトピを注文します。また、花嫁が総ダカ織りのドレスを着ることもあります。糸の種類や色合いが増えたことから、1980年代初めからは、ダカ織りの生産高が急激に増えています。二つとして同じものが存在しないダカ織りは、今日でもネパールの人々の生活の中に息づいています。 

ダカの織り方

はめ込み織り(インレイ・パターン)
 最もよく知られているダカ織りの技術は、はめ込み織りです。経糸が1本おきに上下することによって糸の通る道ができますが、その規則正しい開口部分に、ある一定の部分だけ、下地の緯糸に添わせて色糸を補うことによって、平織りの無地の上に、模様を作ります。平織りというのは、最も単純な織り方で、並んだ経糸の上、下、上、下と、交互に、緯糸が通っていく手法です。一般的には、たて、よこの密度は等しくなっています。ダカ織りの場合、経糸の本数は、2.5cm(1インチ。織りの場合通常インチが使われます)あたり、30〜60本です。下地の緯糸は、糸玉か、杼(シャトル)から繰り出され、はめ込みの緯糸は、ゆるく巻いた糸玉や短い竹のスティックに巻いたもの、チョウチョ型に糸を束ねたものが使われます。このはめ込んだ緯糸は、下地の緯糸を押し広げるような形になるので、緯糸の間隔が経糸に比べて広くなり、密度が低くなり透けて見えるので、ランプシェードにも使われています。

綴れ織り(タペストリー・パターン)
 もうひとつの方法は、綴れ織りです。綴れ織りは、ヨーロッパのゴブラン織り、中国の刻糸、日本の西陣織などが代表的ですが、起源は紀元前の西アジアにあります。一般的に綴れ織りは、経糸の下に図案を置いて透かし見ながら、図案部分を緯糸で塗りつぶすように織られますが、ダカ織りは、図案は織り手の頭の中にあり、また経糸がまったく見えなくなるという絵画的な織り方ではありません。はめ込み織りとの違いは、下地の糸と一緒に色糸を入れるのではなく、色糸だけで、模様を繋げるようにして織っていくことです。機(はた)の上に10種以上の色糸のスティックが並ぶこともあります。同じ色糸を使う部分は別の糸との境界のところで折り返して織られるので境界には隙間ができます。そこで隙間をなくすために、境界をとびこえて緯糸を入れ込ませたり、色の違う緯糸同士をからませたりするので、境界はギザギザの線になります。また、そのことにより、境界では糸が重なり厚くなりますが、織り手が見ている側は、裏側であり、下側の面が、繋ぎ目がない布の表側です。はめ込み織りでも、綴れ織りでも、同じ色糸を切らないように連続して模様を作るために、斜めや曲線模様が多くなりますが、飛び模様を作る場合の長い色糸の直線が、逆に美しさを生むこともあります。
 ネパリ・バザーロが扱っているダカ織りは、この両方の手法で織られています。経糸も黒や色糸を使い、背景と模様が入れ替わる効果を生むものや、太さの異なる糸を用いることで、透かし模様をつくるものがあります。また、綴れ織りのショールでは色の替わるところは、隙間を空けたままにしてあり、表、裏の別はなく、布は滑らかで、透けて見える線が大変美しいものになっています。
ダカ織りの糸について
ダカ織りは、模様の多様性に加えて、経糸の密度、太さや質の異なる糸の組み合わせによっても、多くの変化が生まれます。経糸、緯糸として、一般的に使われるのは、精練(汚れや油分をとる)、漂白した2本撚りの綿糸です。下地の緯糸として、より安価な片撚り綿糸を2本取りにしたり、模様織りの緯糸ととして、様々な色の片撚りの糸を6本取りにして用いることもあります。もっと質の高いダカ織りは、色褪せしない2本撚りの刺繍用糸を2、3本取りにして織り込みます。鮮やかな色使いの、堅い生地を使ったトピは、4本撚りのアクリルの編物用糸がよく使われます。織り込み模様の緯糸として、最もよく使われる色は、赤、オレンジ、黒、そして部分的には緑や青も用いられます。

注) 経糸(たていと)、緯糸(よこいと)


ダカ織りの生産者

 長くお付き合いしているダカ織り生産者のチャンドラさんはカトマンズ盆地の中の古都のひとつ、バクタプールで1992年から生産を開始しました。
 ダカ織りの生産地のひとつ東ネパールのテラトンで生まれ育ったチャンドラさんはダカ織りが好きで大変上手に織ることができました。仕事がなく貧しい故郷から家族でカトマンズに出てきたチャンドラさんは、好きなダカ織りを自分の仕事にしようと思いました。
 やがて伝を頼ってひとりまたひとりと若い女性たちが仕事を求めてチャンドラさんの織り場に来るようになりました。その人たちに織りを教えながら、販売先を探しました。織ったダカを販売してくれるNGOのショップも見つかり、だんだん生産量も増えました。
 今では12人の女性たちが、9人は工房で仕事をし、3人は小さな子どもがいて外へ出られないため家で仕事をしています。ショールで3日、それより幅の狭いスカーフは2日で織り上げます。

 仕事は楽しいのですが、多くの困難に直面してきました。数年前からマオイストという反政府勢力が武力闘争を繰り広げ、このバクタプールもマオイストの多い地域でしたから、多くの影響を受けました。
 新しいスタッフを入れることが、非常に難しくなりました。チャンドラさんが新しいスタッフを雇うには、詳細な書類と写真を警察に提出しなければならないからです。その理由は、たくさんの反政府勢力の人々が身を隠すためカトマンズに逃げてくるからかもしれません。それで、知らない人を入れるということは、反政府勢力の人々を入れる可能性を増やすという論理です。
 そこで時々、夜や朝早くに、警察は家々を探し回ります。ある家で、爆薬を作る材料が見つかったこともあります。このような活動は市民の安全を守るには必要だと思います。マオイストの号令によるストライキの日、チャンドラさんの事務所にマオイストが来て、その日に仕事をしなかったかどうか確かめました。手紙でお金を要求してきたこともあります。かなりの高い金額を要求されました。
 チャンドラさんの故郷、東ネパールのテラトンでもマオイストの攻撃はとても激しかったそうです。
 昼間は、軍はヘリコプターでその地区の警戒にあたり、夜になるとその警戒もなくなります。夜間、マオイストたちは、隠れていた場所から出てきて、軍が村人にどのような質問をし、村人がどのように返事をしたかを聞いてまわりました。村人が軍にマオイストの情報を漏らさなければ害になることは何もしません。でも、彼らが情報を与えるならば、マオイストは彼らだけでなく全ての家族も殺害すると言っていたのです。更に、40,000ルピーという高額を支払うか、15才から25才の息子か娘をマオイストに差し出すかの選択も迫られました。もし、村人が何かを販売すれば、その半分はマオイストに差し出す必要がありました。
 マオイストが村で大規模な集会を開くときには、その周辺の村人は米や他の食べ物を差し入れしなければなりませんでした。
 また、子どもたちにサンスクリット語を教えることを禁じていました。彼らは、子どもたちにサンスクリット語の本を破くように言い、もし先生がそれを止めようとしたら、先生に罰として危害を与えました。先生が静かにしているならば、害はあたえません。家族が死ぬと寺院へいきますが、それも禁じられていました。
 またマオイストは、たくさんの銀行からお金を略奪しました。ジャングルと地下に彼ら自身の世界を持ち、村人を誘拐するとき、彼らは人々の目を隠し、ジャングルへ連れて行ったとも言われています。
 しかし、マオイストは、村で慈善行為もしました。村では、一部の人々は、結婚しても、その女性を顧みず、又、他の女性と結婚する男性がいます。マオイストは、良きマナーをその男たちに教えたり、政府に学校を低額料金にすること、入学金を毎年取ることを禁ずることなども強要してきました。
 マオイストが増えた原因は、教育機会の不足と貧困の問題といわれています。
 この困難な状況にもかかわらず伝統のダカ織りを守り続け、生産は継続されてきました。
 現在、このマオイスト問題は、表面的には解決しつつあるように見えますが、その根本の生活の困窮という課題は無くなったわけではありません。このままでは、また深刻な問題が出てくるでしょう。根本的な課題改善への挑戦は、このダカ織りを通してこれからも続いていきます。

戻り