生産者をたずねて その3 −マヌシ− 染めと織りには自信があります

土屋春代


◆出会い
 パドマサナさんは、約束の12時きっかりにホテルロビーに迎えに来てくれた。彼女は、待っていた私を見つけると突進(?)してきて、ギュッと抱きしめた。そして仕事場へ着く迄、プロジェクトのこと、何を目指しているか、ネパリの目的等々を話しまくり、聞きまくった。パワフルで疲れを知らない人というのが私の印象だ。初めてお会いしたのは、昨年の春、カトマンズのオーストラリア大使館の中庭でフェアトレード展が開かれたとき。参加していた7つのNGOの1つとして、マヌシのブースがあった。絞り染めの美しいパンジャビドレス用の布地に魅せられて物色していた私を、案内していたサナのチャンドラさんが、パドマサナさんに紹介した。

 以前から、サナを通してしぼり染めのバッグを輸入していたネパリ・バザーロと知って、パドさんは喜び、事務所兼工房に来て仕事を見て欲しいと招待してくれた。
製品がどこで、誰によって、どんな風に作られているのか、全て見たい私は、数日後早速訪ねたいと連絡した。そして、パドさんが迎えに来てくれたのだ。
カトマンズ市の中心に近く、王宮から歩いて15分程離れたギャネッソールという所に、2階建ての一軒家があり、そこがマヌシの事務所兼工房になっている。

 入口に続く部屋には各国のNGOから送られて来るニュースレターや草木染めの原料の入ったビン、絞り染めのデザインサンプル等が並び、隣の部屋には製品のストックやサンプルがぎっしり詰まっている。化学染料がまだ主流だが、環境のためにも1年前から草木染めを研究し増やしている・・・、と幾つかの色見本を見せてくれた。
奥へ進むと、デザイン室があり、更に奥が縫製室になり、5人の女性がスリッパやバッグを縫っていた。庭に出ると、簡単な屋根を付けただけの囲いがあり、絞りと染めの工程をしていた。

 木綿の糸を何重にも巻き、絞り模様をつくる仕事は見ていても気の遠くなるような作業だ。クルクルとリズミカルに手早く動く彼女らの指を見て、経験の重さを感じた。時々質問すると、手を動かしながら応えてくれる。
その後、何度も足を運ぶようになった。
ある時、ネパリのオーダーしたクロスの染めで、色を間違えたことがある。その日、いつも染料の調合をする女性が休みで、他の人がやったため間違えてしまったらしい。タライの中で、染色液に浸した途端、私も皆もアッと思ったが、時すでに遅し。藍色の予定がうぐいす色になった。すると、とっさに一人が「お客様はいろいろ。沢山の色があった方が喜ぶわよ」と私にニヤッと笑いかけた。「ダメよ。オーダー通りに作ってくれなくては。でも、もしきれいな色に仕上がったら買うかもしれない」と答えると、一斉に皆で「きっと、きれいに仕上がるわ!」。パドさんも、皆も私も大笑いした。実際、きれいな色に仕上がり、買うことになったのだが。

◆マヌシの活動
 ここでは、15人のスタッフが働いている。デザイナー、マーケティング、カッティングマスター、事務員、絞り、染色、縫製の技術者。他に郊外や地方の村にも仕事をする女性達が140人いる。このマヌシ(サンスクリット語で人間という意)はいつ、どうしてできたのか。
マヌシを主宰するパドマサナ・サキヤさん(49才)は、以前、女性問題を専門に調査するNGOの役員を努めていた。そこで様々な問題を知るうちに、何か具体的な行動を起こさなければと思い始めた。調査で関わった女性達からも、仕事が欲しい、少しでも収入が欲しいとせまられた。どの問題の背景にも貧困問題が大きく影響しているのを知ったパドマサナさんは、彼女らの仕事づくりを手伝おうと、1991年にマヌシを発足させた。
パドさんの呼び掛けに応じた発起人の7人は、それぞれフェアトレード組織を実際に運営しているエキスパート達だった。私も6年前に出会って以来、大きな影響を受けているシャンティ・チャダさんもその一人である。シャンティさんのことは、別の機会に改めて詳しくお伝えしたい。
マヌシが発足後、まず初めにしたのは、両親の収入が少なく、学校を続けられない少女を15人集めてトレーニングすることだった。手工芸のトレーニングだけではなく、経営やマネージメント、マーケティングも教え、中にはお店を持つ女性も出た。
翌92年からハルチョーク(目玉寺の裏)でも、別の15人の少女に服のカッティング、縫製指導を始めた。ヌワコットという郡(タマンという民族が多く住み、ことに貧しい)で、50人の17才から30才の女性達に服作りと公衆衛生を教えた。マヌシから2年間講師を派遣し、その後は、自分達で受け継いでいる。
 昨年からは、サムンドラタールというヌワコットの北(ヌワコット郡の中でも特に貧しい地域で、ボンベイ等に売られている女性達の多くがこの村出身)で、アローでの製品作りを始めた。これ迄、現金収入の道がなかった村だが、アローという麻に似たイラクサの一種がとても育ちやすいところだということに目を付け、紡ぎ、布を織ることを指導した。質の向上の為にも、専門家を一人、政府から派遣してもらっている。
 その布のサンプルをネパールの手漉きの紙に丁寧に貼り、詳しい説明をそれぞれ付けて私に下さった。持ち帰り、日本で専門家に見て頂いたところ、素材はおもしろいが、技術的にも、製品の価値の点からもまだまだ及ばないと指摘された。
今後、商品として通用させるには、時間がかかるだろう。パドさん達の情熱がいつか素晴らしい布になることを信じて、共に頑張れたら。
設立後7年目、少しづつ仕事も広がり、売上もわずかだが増えたという(昨年の売上:日本円で440万円)。国内販売の他、輸出先としては、日本が1番多く、イタリア、アメリカ、イギリス、カナダにも送られている。

◆パドさんの想い
 昨年から、お店を持ちたい人に、ローンの貸付も始めた。4万ルピー(日本円で約9万円)なので、小さな店(村の中)だが、マヌシが保証して借りられるようにした。パドさんは、商品をどう開発し、売って行くか、今後の課題は多く厳しいが、この道がネパールの女性を自立させると信じ、続けて行くと力強く言い切る。女性達がお店を持ったり、仕事をしているのを見ていると、とても嬉しいと目を輝かせた。

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