生産者をたずねて J W D C (Janakpur Women's Development Centre)  −ミティーラアートの世界―

               土屋 春代


◆再びジャナカプールへ
タライ(インドとの国境に近い平野部分の総称)の東にジャナカプールという町がある。観光客の殆ど行かないこの小さな町に埋もれていた宝があった。ネパール・インドに昔から語り継がれる一大叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公・英雄ラーマと美しく賢い妻シータが結婚したと言われるこの町の女性たちに代々伝えられてきた原始芸術"ミティーラアート"。
昨年の1月以来久しぶりに訪ねた町は3月の末であったが、さすがに亜熱帯に位置するタライは暑く、日中は半袖で過ごせた。カトマンズから遠く離れた生産者の状況調査を始めたマーケティング専門のNGOサナ・ハスタカラのマネージャー、チャンドラさん、人間が大好き、様々な人のくらしを伝えたいというフリーカメラマン、藤谷清美さんと3人旅であった。

◆ジャナカプールの伝説とミティーラアート
ネパールがたくさんの小国に分かれていた頃、タライにMaithil(マイティリ、特に絵を指す場合はミティーラと発音)という王国があった。ジャナクという英明な王が支配していた時、王女のシータがラムという神様に嫁ぎ大変に栄えた。この頃からジャナカプールと呼ばれるようになったというヒンズー伝説の町である。王女を奉ったジャナキ寺の祭りには毎年全国からたくさんの参拝者が集まる。その美しいムガール様式の寺はネパールというより、インドを連想させる。人々の顔もよく似ている。肌の色の黒い、目の大きなアーリア系の民族の彼らは話す言葉もマイティリ語、女性のサリーの着方もカトマンズと違う。カトマンズと大きく違うのは車の台数。空港に着くと我勝ちに客を乗せようと近づいて来るのはサイクルリキシャだ。町の中心のホテルまで走って10分。その間にすれ違う車は数台で、自転車、バイクが多い。もちろん殆どの人はひたすら歩く。外国人は珍しいので、ジロジロ見られる。始めてのネパール訪問でいきなりジャナカプールへ連れて来られた藤谷さんは、強烈な印象を持ったようだ。
リキシャで揺られながら左右の家を眺めると伝統的な土壁の家が目に入る。竹で枠組みを作り、わらを混ぜた土で塗り固めてある。白く乾いたその壁に象や鳥、人など、独特なマイティリの絵(ミティーラアート)が描かれている。単純な線で伸びやかにアウトラインを引き、陰影をつけず鮮やかに彩色して行く。代々、母親から娘に伝えられ、神々や動物、結婚式のような華やかな祝い事などを家の外壁や内壁に幸せを祈って描き継いできた。
カトマンズに住むジャナカプール出身の知人に聞くと、昔はどの家にも象がいて移動に使った。しかし飼いきれず,今では余程の金持ちの家でないといないという。壁画によく象が描かれているのはそのためか。昔は身近な動物だったのだ。

◆JWDCの果たしてきた役割
ジャナカプールの女性達の受け継いできたアートを商品化し、少しでも彼女らの収入を確保しようと1989年JWDCが設立された。4年前に現在のクワ村に移った。空港からも近く、広い敷地にジャナカプールの伝統的な家々がセクション毎に分れて並び、真中にチョウタリ(菩提樹等の大きな木の下にある休憩スペース)もあり、明るく健康的だ。アメリカ、カナダ、日本等外国からの援助も多く、入りたい女性たちがたくさん待っている。昨年募集した時も数倍の応募があり、面接で15人に絞った。今ではメンバー80人が絵を描いたり、Tシャツやクロスにプリントしたり、茶碗やカップなどの焼き物を作ったりと働いている。新人のサラリーは800ルピー(法律で定められた最低賃金)。チャンドラさんは安すぎると抗議していた。私の意見を聞かれたが、この地域の物価、賃金から考え、又就業の機会のあまりにも少ない事を考えると、1人の収入を増やすより、多くの人に仕事を与えたほうがよいのではと思うと答えた。マネージャーのスーマン・シュレスタさんは、「新人には、特別な研修をしたり、作品の質も低く売るのが難しいなど投資が必要で800ルピーしか払えない。」と言っていた。
センターでは新人だけでなく毎朝9:30から1時間、識字教育や一般教育、経理やマーケティング等色々な研修をして資質の向上を図っている。メンバーの家族構成を聞いた時、子どもの数は2、3人だった。カトマンズは最近2人ぐらいが多くなっているが、地方はまだ多い。やはりJWDCで避妊指導をしているそうだ。翌日村を訪問した時もセンターで働く女性の子どもは身なりもよく、学校にも行き、きちんとしていたのが印象的だった。
カトマンズでは最近カーストによる差別は少しづつ減ってきたと言われるが、地方ではまだまだ根強く、センターができて女性達が集まり始めた頃、カーストの違う人達がお昼を食べる時、穢れを恐れ一緒に食べれず家に帰ってしまった人もいたという。それが今では一緒に食事をしたり、仕事の相談をしたり、賑やかに、時には喧嘩をしながら共に働いている。

◆ラクシミプール村訪問
翌日はセンターが休みで皆家に居るので、この時とばかりにメンバー8人が住むラクシミプール村を訪ねた。朝8時過ぎに迎えに来てくれたアヌラギさんの案内で出掛けた。ホテルから村までリキシャで30分、ホテル周辺のバザールを抜けるとヤシの樹の間に広い道がインドへと続く。ネパールは小さい国だが、約36と言われる民族が暮らし、それぞれ違う文化を持ち、まるで異国に来たような雰囲気を漂わせていてとても新鮮に映る。
村に入ると早速、あった!あった!マイティリの人の絵が。私達はリキシャから飛び降りるとカメラを向けた。壁の前に最初は一人しかいなかった子がアレヨ、アレヨという間に10人以上に増えた。外からの人など入ったことの無い村は大騒ぎになった。今回の訪問は藤谷さんというカメラマンが同行してくれたが、プロ用の大きなカメラを3台もぶら下げた彼女は注目を浴び、みるみるギャラリーが増え、村は興奮に包まれた。ビデオカメラを持ったチャンドラさんもまるで外国人。どこの国から来たのですか、と聞かれていた。リキシャには法外な料金をふんだくられるし、ほんとすっかり外国人になってしまったチャンドラさん。

◆印象に残った2人の女性

アヌラギ デビさん(60才) 4人の息子は独立し現在、義父105才、孫家族と暮らす。月収1800ルピー、設立以来のメンバー。
家族を紹介してくれたが、結婚したばかりの孫のお嫁さんは出てきたがらない。結婚以来1年間、1歩も外に出ていないそうだ。サリーで顔を隠し薄暗い部屋にじっと篭っているのだ。アヌラギさんが強引に外に出して、顔を隠しているサリーを剥がして、カメラに顔をむけさせたが、笑いながらも、恥ずかしくてどうしようもないという顔ですぐ逃げ出してしまった。サンスクリットカルチャーで夫以外の男性とは話もできないという、女性は家の中だけに留めておく社会だ。
アヌラギさんはセンターで働く前と今との違いをこう語る。 「以前はサリーで顔を隠して暮らし、自分の足元の小さい地面しか見えなかった。今では前を見て周囲の風景が全部見える。仲間と一緒に、時には1人でさえ旅もできる。作品を作ることも、マーケティングもならった。自分の収入を得て、自信も持てた。どう生きていけばよいかもわかった」と。

プレム・ミスラさん(30才)12才で結婚。4年後に夫死亡。以来実家で暮らす。縫製担当。
センターから帰ると、兄弟家族の服や、近所の頼まれ仕事をする。同居している叔父さんに彼女は再婚しないのですか、と尋ねるとサンスクリットカルチャーで他の男性に嫁げないとのこと。カーストの低い女性は再婚することもあるが、プレムさんはカーストが高く、更に本人の意志もあり再婚をしないそうだ。
どの家もそうだが、外壁と同じく内壁も床も泥で塗り固めた家の中はよく整頓され清潔で涼しそうに見えた。亜熱帯のこの地域に相応しく作られているのだなと感心した。
台所兼作業場にプレムさんのミシンが置かれ、きちんとたたまれた縫いかけの服が側にあった。立場のとても弱い"未亡人"の彼女が、仕事を持ち収入を得て家族の中にしっかり位置を占めて暮らしていることがうかがわれる。背をスッと伸ばして歩く彼女がとても頼もしく見えた。

メンバー一人一人の写真を撮っていた時、ある家の壁に他の絵と違う印象の絵があり意味を聞くと、2人の妻を持つ男が、争う妻達の1人をうるさくて殺しているところだという。シータやラム、クリシュナ、ハヌマンなどの神々、象、亀、孔雀、花等華やかで明るい絵が多い中で強烈な印象を受けた。この絵を描いた女性のことをうっかり聞き忘れてしまったが、どういう思いで描いたのかと、今でもふと思う。
ジャナカプールにも最近いくつかの小さなグループができ、女性達の社会進出、組織化が始まっている。1989年設立以来辞めた女性は3人しかいないそうだが、そのうちの1人が別グループを作るなどセンターの果たした役割は大きい。何十年も時間の止まったような町だが、緩やかに、着実に女性達から町は変わって行こうとしている。

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