特集 女性と仕事 出会いから講演会に至るまで 友としてのシャンティさん

土屋春代



 今回カタログ発表、新製品展示販売会という新しい試みにゲストとしてシャンティさんをお招きした。フェアトレードを推進する小売店の方や個人、今後フェアトレードに関わりたいという方達に、ネパールの生産者側から見てフェアトレードはどう役にたっているのか等具体的に話して頂こうと企画した。その時直ぐに思い浮かべたのはシャンティさんだった。長い実践経験があり豊富な知識、鋭い着眼点など彼女以外にいないと。
 そして忙しいシャンティさんのスケジュールを押さえるため昨年の夏に依頼して準備を進めてきた。
 彼女は快く来日を承諾し日本のマーケットを知る良い機会と楽しみにしてくれた。

[出会い ]
 1992年にネパリ・バザーロを設立し、仕事を始めたばかりの頃にシャンティさんと出会った。前年からネパールの女性の自立、子ども達の教育支援という形でネパールと関わるようになったが子ども達をとりまく様々な問題も、女性達が抱える問題も背景の貧困問題を改善しなければ根本的な解決には繋がらないことに気付き、仕事づくりの応援を中心に活動しようと輸入を始めた頃。商品を探して歩き回っていた時見つけたブロックプリントの素敵なクッションカバーを作っている団体・WSDC注1)の代表だった。日本での評判も良く継続して注文も出来、何処で、どんな人達が作っているのか実際見たくて、訪ねた。
 シャンティさんは歓迎して、作業場を案内して下さった。夫に離縁されたり、死別したり、体にハンディを持っていたりという女性達が70人ぐらい働いていた。生活手段を持たぬ彼女達を雇用し、技術を教え、製品を作り、暮せる様にとシャンティさんは熱っぽく説明してくれた。
 高い教育を受けた男性でも仕事に就ける人の少ない国で、教育を受ける機会も男性より圧倒的に少ない女性達。女は結婚して夫に従うものと教えられ若くして結婚し、子どもを産み育て家庭を守っている女性達。ところが夫は簡単に妻子を捨て、他の女性と別の家庭を作ってしまう例がとても多い。抗議もできず、実家にも邪魔者で帰る場所がない。
 高位の軍人の妻として豊かな生活をしていたシャンティさんも夫を亡くした後財産相続権のない女性という立場のつらさを味わった。親戚からも冷たくあしらわれ経済的な困難に陥った。高い教育を受けた彼女ですら遭遇した経験をバネにより多くの、よりつらく弱い立場の女性達を思いやる。
 WSDCに来られた彼女等はまだ恵まれている。他の女性達はどうやって子どもを育てればいいのか、どうやって生きていけばいいのか。
「ネパールの女性は大変だな〜、やれやれ日本に生まれて良かった」と内心思っていた私を見透かしたかのようにシャンティさんはこう言った。「日本とネパールは文化、生活スタイル等似たところが多い、色々輸入出来るでしょう、たくさん買ってください。それにバングラでも女性が首相になるのに、日本でも、ネパールでもなれないのは何故かしら。お互いに頑張らなきゃね」と、日本の女性もまだまだだよ、と発破を掛けられドキッとした。

[再会]
 その後「援助より貿易を」と唱えるシャンティさんは援助に頼る政府に疎まれ代表の座を追われた。挫けず、自分のプロジェクトを起こそうとするシャンティさんに、「何かできることはありませんか、ミシンでも送りましょうか」と言うと「私達は乞食ではありません、お金や物を恵んでくれなくていい、貿易してほしいの。自分達の足で立たなくてはこの国はだめになる。もうあなたは協力してくれているじゃない、買う事が一番の協力よ。そして日本のマーケットでどんなものが売れるのかアドバイスして下さい」と言われ、何をすべきなのか何をしてはいけないのか自分の仕事がはっきり分った。
 しかしその新しいプロジェクトは今までのシャンティさんの仕事と違い手漉き紙の仕事だった。紙製品は既に他団体から入れていて、紙の販売には比較的弱いネパリ・バザーロは積極的に買えず遠ざかっていた。彼女の噂を聞くと会いたくてたまらなかったが目前の仕事に追われ会えないまま時が過ぎた。
 2年前サナ・ハスタカラ注2)のすぐ横に木や石など自然素材でディスプレイし、壁紙まで手漉きの紙を使ったおしゃれなお店ができた。サナのマネージャー、チャンドラさんに聞くと、シャンティさんのお嬢さんの店だという。 外に出ると偶然外柵の工事に立ち会っている彼女が見えた。後姿だったが直ぐに分った。 シャンティさんも背中に視線を感じたのかゆっくり振り向いて私を見つけた。
 お互いに駆け寄り抱き合った私達は言葉よりも先に涙が出てしまった。

[喜び]
 シャンティさんはずっとネパリ・バザーロの仕事を見ていた。たくさんの団体に資本家として、あるいは理事として関わる彼女はネパール全体のことを常に考える。直接彼女との仕事をしていなくても、ネパールの小規模生産者や女性達と仕事を続けるネパリ・バザーロを高く評価してくれていた。「何でも困ったことがあったら言ってね、私で役に立つことがあったらうれしいから。私も娘もいつもあなたと共にいますよ」と暖かく支えてくれる。
 二人の娘を持ち、老いて子どもに返った親と暮すなど共通点も多く、家庭のこと子育てのこと、女性が仕事を持つ事など話は尽きない。「どこの国でも女性の状況は似ているのよ、だから理解し合い協力し合えるはずよ」と言う。
 仕事を離れても良き友人であるシャンティさんを迎えて、日本のフェアトレードを支えて下さる方達と共に学び合えたのは本当にうれしく、大きな喜びだった。

注1)WSDC:Women Skill Development Center
注2)サナハスタカラ: カトマンズにある小さな生産者を支援しているNGOの店



<シャンティ・チャダさん(左)と娘のロティカさん>
1950年ネパール生まれ
イギリス、アメリカ、インド、フィリピンなど各国でマーケティングを学び、自国ネパールで「自らの足で立たなければいけない」の信念に基づき精力的にフェアトレードを推進している。ネパールウーマンクラフトを立ち上げ、販路を広げ、生産者に継続的な仕事を提供するべく活動している。

ネパール・ウーマン・クラフト Nepal Woman Craft
1997年設立、女性一人一人の幸せを考えて、Women(複数)でなく、Woman(単数形)を使う。取組の姿勢が伺える。主に手漉きの紙(ロクタ・ペーパー)を中心に、女性の生活向上、社会的地位向上を願い活動している。
センターは、カトマンズ。女性が約30名に男性若干名、村では約150世帯がこの活動に関係している。


ロクタひとくちメモ

<ネパ−ル手漉き紙の原料「ロクタ」>
 ロクタは、ネパ−ルの2000から2700mの高地の森に育つ月桂樹科の小灌木である。
 ロクタは、ネパ−ル古来からの紙の原料としてよく知られ、その紙は、強さ、素朴な質感、耐久性、虫の付き難さなどから高い評価を受けている。筆で書く紙としては一等級で、この紙を作れるのは世界の中でもネパールだけといわれている。

<ロクタの収穫>
 ネパールで一番大きな祭りダサインの時期の10月、ネパールの高地の村人たちは、ロクタの収穫にでかける。彼らはロクタを刈り取る者と、その皮を剥ぐ者に分かれて作業をする。以前、人々はロクタを根こそぎ取っていたが、今は森林レンジャーの指導を受けて、ある高さで刈り取り数年後また良い枝を刈り取ることができることを教わった。村人は時々タバコと飲み物で休息し、午後遅くなってロクタの皮を大きな束にする。学校から帰った子どもたちもロクタを家まで運ぶのを手伝う。
数日後、彼らは皮を剥ぎ乾かしたロクタを下の谷の大きな村に運ぶ。そこでは、荷が集められ計量されて、下の谷の紙漉き業者や目的のプロジェクトに引き取られる。

<製紙>
 ロクタは、暖かく日当たりの良い製紙職人の村に運ばれる。川沿いにあるブラーマンとチェトリの村では、女性たちは薪をくべ、大きな銅の煮鍋をセットする。樹皮を苛性ソーダ(全行程のうちで唯一の近代的材料)で煮て、繊維を柔らかくし、余計な有機物を取り除く。苛性ソーダは、以前の灰の代わりに使われ、労せずよりきれいな紙が作れるようになった。
 時間をかけて煮て樹皮が柔らかくなると、女性たちはナイフで器用にこすって、樹皮の汚れやしみを取り除き、樹皮の内側だけが使われる。樹皮を再び茹でて、繊維を柔らかくし、石盤の上で木槌で叩いて細かいパルプにする。
 パルプを何度も洗い、最後に一定量を水に浮かばせた枠に薄く広げ紙漉き作業になる。日に干して数時間後、ロクタの紙は枠からはがされる。
 紙を束にして、バグルンバザールの収集倉庫に運び、品質で分類する。製紙職人は製品の質と重量で支払いを受ける。紙は再び梱包され、最終目的地、カトマンズ盆地に運ばれる。
 ネパ−ル国内で長期間使われてきたロクタペ−パ−は、今ブロックプリントを施されたカレンダ−やラッピングペ−パ−としてカトマンズのギフトショップで売られ、またカラフルなグリ−ティングカ−ドはユニセフや、ネパール・ウーマン・クラフト(NWC)のようなプロジェクトを通じて世界中に送られている。

注)メモ資料、写真:SHANGRI-LA April-June, 1992



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