特集 女性が受け継いできた伝統と情熱

 編集部&土屋春代

 

 ネパール・インド国境にまたがるタライと呼ばれる平野部の東に、ジャナカプールという町があります。観光客のほとんど行かないこの小さな町に、埋もれていた宝がありました。母から娘へと、この地に住むマイティリ族の女性達に代々描き継がれてきた壁画。女性は他人に見られないよう、サリーで顔を隠しながら歩かなければならないほど保守的な社会で、女性達の受け継いできた絵を製品化し、少しでも彼女たちの収入を確保しようという試みが始まりました。
 
 平野部の女性たちは、山岳部の女性たちよりもその立場は厳しいといわれています。その平野部のジャナカプールに今回は焦点をあて、「JACの生産者を訪ねて」を通じてその一面を覗いてみたいと思います。

生産者を訪ねて  
JAC(ジャナカプール・アート&クラフト)
−苦境を、助け合い支え合って生きる人々−
              土屋 春代

[ 初夏の風に吹かれて ]

 3月のジャナカプールは初夏の陽気だ。空港から力車に揺られて吹く風が心地よい。
 カトマンズが肌寒く、朝夜はセーターを着るほどだったので、半袖に着替えて身軽になると動き回りたくてウズウズしてくる。
 バザールの真ん中にあるホテルからJACまでは歩いて数分だ。有名なジャナキマンディールやラーマ寺院を見ながらブラブラ歩く。
 ラーマーヤナ伝説に彩られた町、寺院と池と原色の絵が目立つ。華やかで賑やかな町の中心から少しそれただけで、JACの新しく建設中の建物は池を背中に静かに佇む。
 JACでは34人の女性が働き収入を得ている。17人が通いで、17人が家で仕事をしている。

[ アジツさんとJAC設立まで ]

 最初にJACを知り、代表のアジツ(35 才)さんを紹介された時、ミティーラアートと言えば女性と思い込んでいた私は、「えっ!」と正直びっくりした顔をしたらしく「ご期待に添えなくてごめんなさい」と笑われた。

 デザインの打合せをすると、打てば響く反応に驚く。彼からもどんどん提案が来る。お互いに相手のアイディアに刺激を受け、最初に描いていたものよりイメージがふくらみ、良いものができあがっていくのはうれしい。
 今度はどんなことを考えてくるだろうか、とか、このアイディアを話したら何を言うだろうか、とか、会うのがいつも楽しみだ。
 
 5人兄弟の下から2番目に生れたアジツさん。彼は幼い頃、父親からよく叩かれ、ダメな息子という烙印を押され苦しんだ。絵が好きで、部屋で絵を描いてばかりいる息子に「男らしくない」とがっかりし、小さいながらも日用品店を経営する父親は早く商売を覚えて独立して欲しいと願った。 やがて店を与えられたが、1年で失敗し、好きな絵を習いたがる彼を、父親はとうとう勘当した。
 親から自分を否定され、家も追い出され絶望したという。しかし、やがてそんな中からも彼は少しずつ自分の道を見つけ始めた。
 
 やはり好きな絵の道に進もうと思った彼は、ネパールで有名なタンカ(仏教画)を習うチャンスがあり、喜んでカトマンズへ行った。しかし、師は「おまえの絵は他にある。ジャナカプールの人間はミティーラアートを大切にしなさい」と諭したという。
 
 自らの役割を自覚した彼は村々を回り外壁に描かれている絵をスケッチし始めた。昔は夫に大事にされるようにと殆どの女性たちが刺青をしていたが、今では刺青をする女性たちもずいぶん減ってきた。そのデザインをひとつでも多く記録しようとノートを埋めた。
 ミティーラアートに精通するようになったアジツさんは希望者に教え、それで何とか自力で生活できる目途もたった。勘当された父親にも許され、両親のすすめるリナさんと結婚し、息子ひとり、娘ひとりも授かり、順調な生活を送るようになった。
 しかし、村を回り絵の研究をする間に、女性たちの厳しく辛い生活を知ったアジツさんは、自分だけの幸せに満足せず、彼女たちの収入に結び付けることのできる仕事を始める決心をした。
 
 ミティーラアートを商品化し女性達の収入に結び付けるNGOとしてすでに有名になっていたJWDC ( Janakpur Women’s Development Center) で何年か仕事をしたことのあるビーナさんとも出会い、彼女の経験に助けられ1994 年、JACを設立した。


ジャナカプールの伝説

ネパールがたくさんの小国に分かれていたころ、タライには「Maithili(マイティリ、特に絵画などの芸術をさす場合はミティーラと発音)」という王国があった。ジャナクという英明な王が支配していたとき、王女のシータがラムという神様に嫁ぎ大変に栄えた。この頃からジャナカプールと呼ばれるようになったというヒンドゥー教の伝説の町である。王女を奉ったジャナキ寺の祭りには毎年全国からたくさんの参拝者が集まる。その美しいムガール様式の寺は、ネパールというより、インドを連想させる。人々の顔もよく似ている。肌の色の黒い、目の大きなアーリア系の民族の彼らは話す言葉もマイティリ語、女性のサリーの着方もカトマンズと違う。


 [ シルワスタさん ]

 2000年のクリスマス用にフェルトで象のオーナメントを作った。かわいいその飾りは好評で大量の追加注文をすることになった。しかしその時、ビーナさんは子宮筋腫の手術を受けた直後で仕事ができない。
 アジツさんは入って1年目の、生活の厳しさから優先的に仕事を回したいと思っていたシルワスタさんにこの仕事を回せたらと思い、術後のビーナさんを訪ねて相談した。

「ネパリ・バザーロから注文がきて作らねばならない。あなたのデザインだが他の人に作らせても良いだろうか? 皆大変な暮らしをしているが、中でもとっても厳しい生活の人がいる。その人にこの仕事をあげても良いですか?」と。

 ビーナさんはどんなに厳しい状況でもいつも笑顔を絶やさず、明るく強い女性だとアジツさんは言う。その時、ビーナさんは「その人の暮らしが少しでも良くなるといいですね。」と答えてくれた。 
 アジツさんに案内されてシルワスタさんを訪ねた。バザールから歩いて15分くらいの住宅地。決して裕福とは言えないまでも庶民の住む家々が立ち並ぶ中に、柱にムシロを掛けただけのような場所がある。それがシルワスタさん一家の住む所だと言う。18才と16才の娘と10 才前後の息子ふたりがいる。夫は精神を病み仕事ができない。イライラし暴力をふるい家族を追い出した。母子は1年ほど外で暮らしたが、シルワスタさんは、何とか家族が一緒に住めるようにしたいと、JACに仕事を求めて来た。
 3ヶ月の技術トレーニングを受け、仕事を貰えるようになった時、象のオーナメントの仕事を貰えて、とてもうれしかったと言う。

 年頃の娘の居る家なのに壁がなく、寝台の回りを辛
うじてムシロが壁代わりに覆っているが、着替えるのにも問題がある。アジツさんも心配して、壁だけは早急に工事したいと話す。かまども雨風の時は使えず、乾かした米などを食べて凌ぐ。
 
 18才の長女はSLC(全国一斉の卒業検定試験)の結果を待っている。「受かっているといいね」と言いながら、受かっても仕事につくことはできない厳しい現実に立ち竦む。 たじろぐ私に、写真を撮ることも、彼女たちの生活を発表することも、却って積極的に同意してくれた。何故?
 嫌ならば無理をしないで、写真がなくても、あなたがたの生活を伝えなくても、製品は頑張って売るから大丈夫だから、と言うと、シルワスタさんは「私たちのような人が少しでも減るように。役に立てたらうれしい」と微笑んだ。


ミティーラアート

タライの東、ジャナカプール。この町の女性たちに代々受け継がれてきた原始芸術「ミティーラアート」。
家の内壁や外壁には、様々の絵が描かれている。楽しそうな絵から深刻なものまである。その絵を通して、生活の様子が伺えるもの、女性の微妙な心理の動きが伝わってくるものまである。その絵の独特の画風に魅了される。


[ モニカさん ]
 
 下を向いて彩色に余念のないモニカさんが、私を見て「また来てくれたんですね」と笑顔で話しかけてくれた。新しいサリーを着ているのね、きれいですねと言うと、笑って周囲を指さす。
 あらあら同じサリー! そう、JACではダサイン(10 月にあるネパール最大の祭り)の時、皆に新しいサリーを配るそうだ。それをJACで働く時に着る人もいれば、別の場所で着る人もいる。ここで働く人たちの生活は厳しく自分のサリーを買うことは滅多にないだろう。収入を得ても自分のことは後回し。それを知るアジツさんの心遣いだろう。
 
 昨年、モニカさんのお宅に伺った時、50代ぐらいに見える女性が食事の支度をしていた。
 お手伝いの人? と首をひねっていたら、アジツさんが、「1人目の奥さん、お子さんがいなくてね、モニカさん(2番目の妻)が働いているのでその子どもたちの面倒を見ているんです」と説明してくれた。私たちに何か訴えかけるように見つめるその人の目から涙が伝い流れた。声を立てずに静かに泣くその人に、何の言葉も掛けられなかった。
 2人の妻を置いて数年前に夫は亡くなった。モニカさんは食べるためにJACで絵を習い、働き、もうひとりの妻はその留守を守る。
 その時、赤ちゃんを連れて嫁ぎ先から来ていた長女は14 才だった。その下の妹が今年結婚することになった、とアジツさんが言った時、思わず「あの子の妹!まだほんの子どもじゃない!」と叫んだ。
「他にどういう道がある? 食べさせる子どもが減ってモニカさんは楽になるよ」
 アジツさんはボソッと言った。 


ミティーラアートの地域
ジャナカプールは、インド国境に近い平野部にあり、ネパールの首都カトマンズから東側、紅茶で有名なイラム、パンチタール地域の下にあるビラトナガールとの中間に位置する。
ネパールは小さい国だが、約36 と言われる民族が暮らし、それぞれ違う文化を持ち、まるで異国に来たような雰囲気を漂わせていて、とても新鮮に映る。ジャナカプールの人々は、その民族の一つ、マイティリ族で、言葉は、マイティリ語。東ネパールの平野部に住む人々で、ネパール語についで多く話されている言葉(12%:1961 年国勢調査by People of Nepal)でもあ
る。


[ 継続すること ]
 

 ネパリ・バザーロでよく売れているJACの商品に写真立つきの小さな鏡、ミニミラーがある。
 その絵を描いているのがミラさん。
 2年くらい前に夫の兄が亡くなった時、ネパールの法律では、死後数週間内に借金を完済しなければ、抵当は取り上げられることになっていて、兄が土地を担保に借りていたお金を返さなければならず困っていた時、アジツさんはミニミラー製作の前金としてお金を渡し、彼女は借金を返すことができ、その後も仕事があり、順調に行っているという。夫は教師をしながら、妻の仕事の手伝いもよくし、同居する夫の母親も、嫁がよく働くとほめているという。
 アジツさんに「ネパリからミニミラーの継続注文がくるから、先にお金を渡せた」と言われ、もし注文できなかったらどうなったのだろうと思い、ヒヤッとした。

[ すれ違い ]

 海外に出たことのないアジツさんは、外のマーケットのことをあれこれ想像はするが、実態がわからない。特に日本のことは、多くのネパールの人がそうであるように、強い経済力、大きなマーケットとして、過大に評価している。

「日本では物が溢れ、中国やインドなどから安いものが大量に入って、簡単には売れない」と現状を説明しても理解は難しいようだ。
 
 村を訪ねる間中、力車に並んで座りながら、お互いに理解してほしいと、熱の入った議論が続く。

「日本人はね、20年ぐらいな〜んにも買わなくても生活できるほど、いっぱい物を持っているんだって! どんなにあるかって、雑誌に写真が出て・・・アレッ アジツさん! ねえ! それでねえ、聞いてよ!」
 
 急に力車を止めて、外に飛び出したアジツさん、1軒の家の外壁を指差して,「はるよさ〜ん、ねえ、この絵イイでしょう! 見て!見て!」


JAC
1994 年設立されたJACはジャナカプールに伝わるミティーラアート製品を手がける工房です。地元の女性たち34人が仕事をしています。彼女たちの多くは、マイティリ族の中でもカーストが低く差別を受けたり、夫に捨てられたり、死別したり、大家族なのに収入がなかったりと、社会的にも経済的にも苦しい立場の女性たちです。JACではそうした収入が必要な働きたい女性たちに絵のトレーニングから始め、縫製やカッティングなど得意な分野で力を発揮できるように気を配っています。また、家庭の事情で家を離れられない人は、自宅で仕事をしています。代表のアジツさんは女性のものとされるミティーラアートを自ら学び、多くの女性たちに教え、商品開発から販路開拓までこなす傍ら、JACの女性たちがそれぞれ抱える問題を全て把握し、必要なサポートをしています。

JWDC (Janakpur Women’s Develpment Center)

ジャナカプールの女性たちの受け継いできたアートを商品化し、少しでも彼女らの収入を確保しようと1989年JWDCが設立された。空港からも近く、広い敷地にジャナカプールの伝統的な家々がセクションごとにわかれて並び、真中にチョウタリ(菩提樹等の大きな木の下にある休憩スペース)もあり、明るく健康的だ。アメリカ、カナダ、日本等外国からの援助も多く、入
りたい女性たちがたくさん待っている。以前募集した時も数倍の応募があり、面接で15 人に絞った。今ではメンバー80 人が絵を描いたり、Tシャツやクロスにプリントしたり、茶碗やカップなどの焼き物を作ったりと働いている。

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