第9号

もくじ

◆ナマステ
◆活動のご紹介
◆ネパール旅行記 2
◆ホームの現状報告
◆ヒマラヤとカトマンズについて
◆新メンバーのご紹介:廣田麻紀子
◆ネパリ・バザーロより
◆ネパールの児童労働(本のご紹介)
◆会のロゴマークができました
◆ご寄付ありがとうございました
◆編集後記


ニュースレターページへ戻る次号へ進む



◆ナマステ
少し前のあの暑い夏が嘘のように、秋も深まってきました。会では、ネパールを訪問していたメンバーからカトマンズの子ども達の様子などを聞いたり、夏から続いたバザーなどのイベントでいつまでも日焼けがおさまらなかったりと、にぎやかに過ごしています。
今号では、ビシュヌさんの活動を中心にご紹介していきます。   
目次へ

◆活動のご紹介
私達の会は教育上や経済面で不利な立場にある女性の自立と、すべての子ども達の健全な育成を願い、1991年より活動をしています。 現在の活動は、
  30人のストリートチルドレンを引き取って家族同様に育てているビシュヌさんのホーム(モーニングスター・チルドレンズ・ホーム)に生活費や教育費の資金援助をすると共に、手紙の交換や訪問により交流を深める。
  2人の小学生に学費と寄宿舎での生活費を援助すると共に、2人の通うモデルスクールとも連絡を取り合い情報交換をする。
  密接な活動関係にあるネパリ・バザーロを補完し、女性の社会問題や村の問題に取り組んでいく。
などが主なものです。
 ネパリ・バザーロは、貿易を通して自立を応援する活動です。ネパールの物品を輸入販売することにより、村の生活条件の向上、就職に不利な女性たちの仕事の場の提供と社会的地位の向上、児童労働の状況緩和、そして市場を広げていくための技術の向上などに寄与できるよう日々努力しています。様々な社会的問題は、経済的な問題と深く関わっていて、寄付金に頼るだけでは解決しない難問です。家庭に安定した収入のあることが、子どもの就学を後押しするのも事実です。
 会の支援や交流を通して、ネパールの人々と協力しあい、学びあい、ともに成長していけることを目指しています。  
目次へ

◆ネパール旅行記 2
久田智子
 少し間があいてしまいましたが、ネパールを訪問した旅行記の続きとして、今回はビシュヌさんのホームと診療所について、綴ってみたいと思います。(これは、1994年の年末に訪問した時のことです。)
私が、Morning Star Children's Home を訪れるのは勿論のこと、ビシュヌ夫妻や子どもたちに会うのも初めてのこと。活動に参加して以来、他のメンバーから見せてもらったビデオや写真で、様子は見聞きしていたものの、実際に会える日をとても楽しみにしていました。 私達がホームを訪問したのは、丁度クリスマスの日。敬虔なクリスチャンである彼らは教会へ行っていて留守でしたが、間もなく続々と帰宅してきました。私達を見つけると少し照れたように、けれど、きちんと両手を合わせて“ナマステ”と挨拶をして家の中に吸い込まれて行きます。大きい子から小さい子まで総勢27名。そんな中に混ざって、ビシュヌ夫妻も登場。思っていたより小柄で、大勢の子どもをかかえた上に診療所まで作ってしまうパワーが、どこに潜んでいるのかしらという印象を受けました。しかし、「いらっしゃい。」と迎えてくれたサングラスの奥の瞳はとても優しげでした。 ビシュヌさんが声をかけると、次々に子ども達が集まって来て、6畳ほどの部屋は、みるみるうちにあふれかえってしまいました。そこで私達は紹介され、誕生日の子に持参した手作りカードを渡しました。名前を呼ばれると、照れくさそうに返事をし、受け取るとそっとカードを開いて見ています。それを覗き込む回りの子達。いつもこんな風にして、私達のカードが各々の子に、ビシュヌさんから手渡されているのだろうなと思いました。そのなごやかさは、温かな家庭の雰囲気でした。 礼儀正しく働き者、皆よく協力し合っています。すっかりホ−ムに馴染んでいる子、来たばかりなのか、まだ何処かに緊張の面持ちを残している子。そんな彼らを、温かく包み込んでいるビシュヌさん御夫妻の大きな愛を感じずにはいられませんでした。一見平和そうだけれど、決して生活にゆとりは無く、抱えている問題は多々あります。そのひとつとして、進学という問題もあります。年長の3人は、一生懸命英語を学び、将来の夢を持っています。できることなら、その夢がかない、いつかビシュヌさんの良き理解者となってこのホ−ムを支えていってくれれば・・・と、勝手な思いがよぎりました。子ども達は、屈託のない笑顔をしていて明るく、今回の訪問でとても身近に感じることができました。
別の日、診療所を訪れました。そこには、ボランティアの日本人女性と数人の子どもがいました。ここへ来る子は、殆どがストリ−トチルドレンで、ビシュヌさんが手当ての必要な子を連れてきたりしています。中には怪我が治っても、包帯を巻いて欲しいと毎日通って来る子がいたり、治療に関係なくふらりと来ては時間を過ごして帰っていく子もいるそうです。彼らにとって、ここはひとつの息抜きの場であり、愛情を求めている姿なのかも知れません。
タメルは賑やかな町だけれど、道端には野良犬ならぬ野良牛が横たわり、通りはバイクや車が排気ガスを吐き出しながら走り抜けていきます。そんな中で、この子達は一日を過ごし、日が暮れると何処かに身をひそめ不安な夜を過ごすのでしょうか。本来なら、家族の愛情を受けて成長していくはずの子ども達。しかし、貧しさ故に罪のない子が、どれだけ犠牲になっているのかと思うとやりきれなくなります。また、ストリ−トの中には、男児が多いと言われています。女児は売春目的で連れて行かれてしまうからです。親自ら家族やお金の為に、我が子を売るという話も聞かされました。とても胸の痛む現状です。
クリニックの中で一番唄が上手だという男の子が、声がかれていると言いながらも、最後に照れながら、私達に歌を披露してくれました。かすれ声ではあるけれど、伏目がちに一生懸命唄ってくれました。どんな内容の歌なのかはわかりませんでしたけれども、何となく物悲しく心の琴線にふれ、ジワリと涙の浮かぶメロディ−でした。
今回のネパ−ル訪問の中で、クリニックでの出来事は短時間であったにも関わらず、私にとって、とても衝撃的でした。ここで出会った子達は、表情が堅くとてもシビアな瞳をしており、都会で生きていく厳しさがにじみ出ていました。そして、このような境遇の子がまだまだ大勢いるという事実がとても辛かったです。狭い家で貧しいながらも、家族の愛情をうけて育っている村の子達。ビシュヌさんのもと、家族同様に温かく暮らし、明るく育っているホ−ムの子達。勿論、彼らにも様々な苦労や問題があるとは思います。しかし、日々の生活も保障されず、ひとりぼっちで生きているストリ−トチルドレンを見ていると、胸がえぐられる思いで涙が止まりませんでした。この子らが受けた心の傷が少しでも癒され、子どもらしく生活していけるような時が来ること、そして同じ事が繰り返されないような国になることを、強く願わずにはいられませんでした。学校があっても通えない子がいたり、中断せざるを得なかったりするのは、彼らにとってはまず衣食住の確保が第一条件であり、その基盤あっての教育だからなのでしょう。まずは、自立していけるような村作りをすることや、現金収入の得られる仕事の場が与えられることが必要なのだと思いました。そして、これらの多くの課題を抱えながら、今後の援助のあり方を深く考えさせられる旅となりました。
      ナマステ
 今回挿し絵として使用した絵は、クリ ニックに集う子どもたちが描いたもので す。クリニックでは子どもたちの絵をネ パールの手漉きの紙に貼りグリーティン グカードに仕立てて販売し、売り上げの 一部を材料費に、残りをその絵を描いた 子どもに渡しています。    
目次へ

◆ホームの現状報告
メンバーの春代さんがネパールを訪れた際、ビシュヌさんと話し合いを持ち、ホームの最近の様子や問題点を詳しく聞いてくることができましたので、ご報告します。
Morning Star Children's Home
1;人数
 ビシュヌさん、ムナさん夫妻と30人の子ども達(夫妻の実娘一人を含む)の他に、夫が出ていってしまった女性が3歳の息子とともにお手伝いとして住むようになりました。盲人の男児がタライから来る予定もあります。
2;住居
これまで、リングロードの北側に近いバシュバリに家を借りていましたが、オランダの教会の支援により、7月に3階建ての広い家を購入することができました。部屋数も多く、庭で野菜や鶏を育てることもできますが、以前の住まいからさらに数キロ北上したブダニルカンタという町に移ったため、クリニックのあるカトマンズ中心部からはかなり遠くなってしまいました。また、オランダの教会の支援は建物の購入分だけでしたので、水道敷設の費用にも窮している状況でした。水道の敷設工事費については私達の会から支援することになりました。
3;生活費
ホームでは月最低31,000ルピー(約62,000円)の生活費を必要としています。これには、月2俵以上になるお米などの食費約20,000ルピーを始め、学費、医療費、光熱費などが含まれています。義足を使用している子どものためにその子の成長にあわせて年4回交換する費用も必要です。ホームでは、私達の会の他にイギリスやカトマンズの教会から毎月定期的な資金援助を受けていますが、それでも定期的な資金援助を受けていますが、それでも月数千ルピーの赤字となっています。
 特に今回は、以前から体調のすぐれなかった妻のムナさんが胆石の手術で入院することになってしまいました。このように病気で緊急に多額のお金が必要なときは、蓄えもなく誰に助けを求めたらよいのかと途方に暮れ、まるで乞食のような気分になるということです。ムナさんの入院費については、緊急支援ということで私達の会から援助することにしましたが、今後は本人の裁量でいつでも安心して使える貯蓄が必要と思われます。
4;今後のホームの運営について
  30人もの子ども達を預かるようになり、ホームの今後の運営や後継者が気になるところです。ビシュヌさんとしては、16、7才になった年長の子ども達にはクリニックや買い出しの仕事を覚えてほしいと思っていますが、あくまで子ども達の意思を尊重し無理に後継者にとは考えないということです。
 将来的にはNGO登録をして政府とのパイプをつなぎ、運営上経済上の地盤を固めて行きたい考えのようです。
 今年の春からメンバーに加わった大野 達雄さんと、ネパリ・バザーロで活躍す る廣田麻紀子さんの自己紹介です。  
目次へ

◆ヒマラヤとカトマンズについて
               大野達雄
 '91年10月15日午後11時、薄暗いトリブバン空港に、香港発のドラゴンエア310便はあっけないほど静かに着陸しました。出発前の細々とした打ち合わせや、繁雑な調整から解放されて空の上に飛び出したころは、”後は野となれ山となれ”の心境でございました。とはいいつつも”山となれ”のフレーズに我らは決して山をないがしろにはしていないぞという決意が読みとれるというものです。  それにしても、夢でしかなかったヒマラヤの国に降り立つことができた胸の動悸は、飛行場の危うさばかりではなかったようです(でもルクラはマジで怖かったなー)。
 さて、初めてのジャイアント(ヒマラヤ)で高山病を忘れるほどすばらしい体験をして戻ってきた私たちにカトマンズはとてつもないほどの雑多な街に映りました。人と、車と、ほこりと匂い。あのサガルマータの白い吐息(雪煙)をうけて、ピンク色(朝焼)に頬を染めたローツェ。神々しいほどの2ショットに比べると、カトマンズの神々はなんとバッチイことでしょう。赤や黄色に塗りたくられて、犬や猿がはいずり回り、もう何でもありだけん好きにしてね状態でございました(ダサインの最中ではありましたが)。
   そのうち、戸惑いとあきれ状態が過ぎて冷静にカトマンズの人々とお話をしたりすると、私たちと心根がとても似ていて、目と目が合ったときのさわやかな笑顔はとても魅力的でした。特に子ども達の瞳は、大きくて、輝いていて、正面からきっちりと見つめられると、俄か成金の日本人としては、スマンおれが悪かった(なんだかわかんないけど)と思わずうつむいてしまうのでした。でもそんな子ども達の中にも、寺院の片隅でほこりだらけになって寝ている子や、ボンボン、ボンボンと幼い手を口に運ぶしぐさで食べ物を要求する子ども達を見るにつけ、ヒマラヤの美しさとはあまりにもかけ離れたこの国の厳しく悲しい姿に胸が痛む思いをしました。
 今年7月末に、ビシュヌさんのホームを訪ねました。健康上決して十分ではない御夫婦が、30数名の子ども達をかかえ、教育のこと、資金のこと、支援者とのトラブルのこと、そして子どもの行く末のことを遠慮がちに話してくれました。私達が何を求められているのか、何をしてあげられるのか、そして今何をしなければならないのかをヴェルダの皆様と話し合いながら、私なりに考えていこうかなと思っています。ビスターリ(ゆっくり)ですけれどもよろしくお願いします。    
目次へ


◆新メンバーのご紹介:廣田麻紀子
 ネパリ・バザーロの新人・・・・・といってももう既に1年が経ってしまっていました。自己紹介が遅くなりもうしわけありません。  19**年、フィリピンで生まれ、横浜で育った獅子座のA型、廣田麻紀子です。よろしくおねがいします。
今回会報で場所をいただいたのはいいものの、何を書けばいいやら、と苦しんで迎えた締め切り(実はもうとっくに過ぎている)。ネパリ・バザーロに来てから1年、フェアトレードの仕事に毎日ドップリとつかっている私が書くとなるとやはり現場のレポートになるでしょうか。  まずはフェアトレードというものを簡単に説明しますと、貧困や教育の不十分、人種的性別的差別などという問題を多く抱えた国で製作、栽培されたものを適正な価格で買い取り、また無理のない注文を持続していくこと で、その国の人々に仕事の機会をつくり、経済的自立を促す、というもの。そのフェアトレードの現場、なぁんて書くと最先端のような、なんとなくかっこよく聞こえますが、実際私が毎日追われている仕事といえば、洋服にアイロンをかけまくって1日が過ぎ、商品に値札をつけるだけで1日が終わり、ホコリアレルギーの私にはこれが一番地獄のような仕事ですが、部屋中に積み上げられたセーターに埋もれて製品チェックをしてるうちに日が暮れたり・・・、そして頭にあるのは、「あれ売らなきゃ、これ売らなきゃ」「このお店にはこの商品、あの人にはあの商品」「あ!おつり間違えた」「あ!これじゃ赤字だ」「うー、荷物の持ち過ぎでギっクリ腰だー!!」・・・という感じ。
 あ、でも誤解しないでくださいね、私はフェアトレードの理想と現実のギャップなんてものを言おうとしているのではなくて、こういう毎日の泥臭い積み重ねがフェアトレードの現実でありそして理想の姿なんだと思うのです。そして製品を作ったり、栽培したりしているネパールの人達は私にとっては支援の対象ではなく、うまくは言えませんがライバルのような感じですね。みんなこんなに頑張っていいものを作ろうとしているのだから、売っている私も負けちゃいられないぞ、という。
 1年が過ぎ、やっと自分自信のモットーのようなものも出来てきました。今日もネパールの人が心を込めて作ったコーヒーと、セーターと、バッグや雑貨やクッションカバーを車につめて走りまわっています。
「フェアトレードは売ることと、続けること」   1995年 秋    
目次へ
 

◆ネパリ・バザーロより
           土屋春代
秋冬商品のチェックと発送のため、9月5日から23日まで19日間、ネパールに出張しました。毎年、1月、2月と9月は、オーダーやチェックのため、カトマンズに行きますが、排気ガスと埃で、空気の悪さは増すばかり。到着直後より慌ただしく動き回り、疲労もあったのですが、3日目の夜から熱と喉の痛みに苦しめられました。持参したカゼ薬や解熱剤を飲んでも効かず、夕方から悪寒と激しい頭痛、夜中は咳き込み寝られず、朝から熱のため気だるいという日が10日も続きました。途中から、心配した友人の看護婦(彼女は、今年の2月からネパールのハンセン氏病のセンターに来ている日本人ボランティア)が分けてくれた抗生剤でずいぶん楽になり、体もカトマンズの空気に適応してきたのか、帰国前の1週間は、好調を維持できました。
友人のお母さんは、喘息で苦しみ、市内に住めず郊外に越したし、学校を経営している知人の奥さんは7ケ月もひどい咳に苦しみ、夜中に何度も起きたそうです。ベルダ・レルネーヨの協力者である和美さんと2才半の愛ちゃんも、外出すると次の日は熱や咳に悩まされるそうです。政府も、電気自動車の導入や製造年の古い車の輸入制限等の政策を講じているようですが、効果がでて、空気がきれいになるのはいつのことでしょう。 車で20〜30分も走って郊外にでれば、空気もきれいで、山が望め、静かな田園地域になるのですが、すりばちの底のような狭い盆地のカトマンズの環境は悪化しています。
皆様に応援頂いているコーヒーの状況ですが、日本に初めて輸出したというニュースが口コミで広がり、コーヒーを集荷してくれているサンタ・ラマさんのオフィースに、いろいろな村から、コーヒーの栽培をしたいのでアドバイスをと依頼がきたり、作った豆を1ー2kgづつ届けに来たり、近隣の村同士でプロジェクトを組みたいので協力して欲しいと陳情に来たりと、その反響の大きさに驚きました。ドイツや、オランダからの引き合いもあり、マーケットが開けたので、農民の意欲は高揚し、生産高もどんどん増えそうです。現金収入のない村の産業のひとつとして、着実に育って欲しいと思います。
さて、今年の秋冬のお薦めは、シディマンさんの彫った来年の干支のねずみや可愛い猫達のスタンプ。そして、ムニールさんの工場で毎年作っているスエードのベストで、前面に刺繍をプラスしてみました。マスターの自慢の上品で華麗なそのデザイン、色の組み合わせに心からの賛辞を送ると、ニッコリと嬉しそうに「ネパリ・バザーロのお客様の好みはしっかり分かっているよ」と言っていました。7人の刺繍の専門家達は、少しも手を休めずセッセと刺し続けていました。1枚のベストの刺繍にどの位の時間がかかるのかと伺うと、かなり熟練した人でもまる一日かかるということです。私達はこんなに手間暇のかかっている物を簡単に手に入れ、着ることができるのかと驚きます。工場で、職人さん達の手仕事を見ていると、いつも厳粛な気持ちになります。今時、これだけ手のかかる物を作り続けている人達がいる、そしてそれを私達は手頃な価格で手に入れることが出来る。カトマンズも物価がどんどん高騰しているので、少しづつ手間賃も上がり、高くなるでしょうが、それでもこれだけの技術を絶やさず作りつづけて欲しいと願うので、少しづつでもオーダーを続けて行きたいと思います。
*興味をお持ちの方は、是非お問合わせ下さい。製品カタログをお送りします。どれも手作りのため、数に限りがありますので、お早めにどうぞ。ネパールの職人さん達の技を貴方のおそばにいかがでしょうか。   
目次へ


◆ネパールの児童労働(本のご紹介)
CHILD LABOUR IN NEPAL
BY OMAR SATTAUR
1993
英文要約:ローラン・マッソン
日本語概訳:魚谷早苗
 一家庭の子どもの数の多い(平均5人)ネパールでは、子どもは家族を助けるために常に働いてきました。人口の42%が14歳以下という非常に若い年齢構成が児童の労働なくしては社会が機能しない状況を生みだしてもいますが、近年、貧困による農村から都市への移住により悲惨な児童労働が増加しています。この問題の主原因として次の二つが挙げられています。
1)教育
 地方の子どもにとって教育はまだ限られたものです。政府は教員の給与を払ったり低学年の学費を無料にしたりしていますが、未だ教材費は個人負担で年平均200ルピー(約400円)かかり、たくさんの子供を持つ貧しい家庭には払うことができません。女児の就学率の低さも問題です。 2)移住
 農業だけでは食べていけず職を求めてカトマンズに出てくる移住者の数は急増しています。彼らは都市の非公式な労働力となり、利用されて高利の借金を背負い、その子どもは借金のカタに奴隷として市場に投入されていきます。
都市部は人口増加にともない不法居住やスラムが増え、ストリートチルドレンの数も1990年には700人になり、さらに増え続けています。彼らは病気の危険にさらされ、学校にも行けず、無知ゆえ何度もだまされ続けています。暮らしのすべはくず拾いや物乞い、あるいは同様に苛酷な工場での労働しかありません。カーペット工場の労働者の50%は16才以下で、始めの3ヶ月は訓練期間として無給で働かされます。呼吸器系や目の病気にかかりやすい暗く換気の悪い埃まみれの部屋で日に10〜16時間働き月給は500Rs.(約1000円)程ですが実際には本人ではなく家族やプローカーの手に渡ってしまいます。
 地方でも茶畑で働く1割は子どもで、その半数以上が学校にも行かず危険な仕事をしています。奴隷制は1924年に違法となりましたが、土地所有の形態の中に存続しています。人口のわずか4%が国土の46%もの土地を有する富の不均衡の中で、貧しくカーストの低い農民は土地所有者に無給で労働を強いられ、わずかな借金を理由に無期限でこき使われます。その子どもも返済の労働にかり出され、生まれながらに金貸しや土地所有者の奴隷となり、職を選ぶ自由はありません。ネパールにはこのような子どもが200万人いると言われています。
    ご結婚おめでとう!!
 ローラン・マッソンさんと安部慶子さ んが結婚され、9月からフランスで新生 活を始められました。メンバーが二人も 遠く離れてしまったのは残念ですが、日 本にいるのとはまた違った視点の意見や 情報を聞かせてもらえるのではないかと 今後のご活躍を期待しています。   
目次へ

◆会のロゴマークができました
今号から表紙のタイトルが一新したことにお気づきでしょうか。かわいいおうちと木をアレンジしたタイトルは、デザイナーの養父(やぶ)さんにお願いして作っていただいたものです。このおうちの中で子どもたちが楽しく暮らしているようで、すっかり気に入ってしまいました。今後は私達の会のロゴマークとして活用していきたいと思います。   
目次へ

◆ご寄付ありがとうございました
大槻田鶴子様 ・・・その他、ネパリ・バザーロの販売活動にご協力いただいている多くの方々に深く感謝いたします。 
目次へ

◆編集後記
ホームの男の子からお手紙が届きました。すでに私より英語が上手になって頼もしい限り。(早苗)   
目次へ







  <common@nbazaro.org>
  ご意見、ご感想をお送り下さい

This page is presented by Nepali Bazaro.
All rights reserved.