石巻訪問で感じたこと(その2)

石巻へ向かう車中で被災地に近づいていることを最初に感じたのは、「災害派遣」の横断幕をつけた自衛隊の車両を見た時でした。仙台に入った辺りから次第に数が増えてゆき、その後は石巻の市街地に入ってからも当然のようにごく普通に走っていました。理由は後で判明するのですが、石巻赤十字病院の近くに自衛隊が活動拠点として臨時に基地を構えていて、そのため多くの自衛隊車両が石巻近辺を通行しているようでした。
 津波の被害を目の当たりにしたのは、仙台東部道路という高速道路に入った直後です。後で確認したところ、そこが仙台市若林区という地区でした。道路と海岸線がほぼ平行して走っているのですが、海まで2~3kmは離れて
いるでしょうか、はるか向うに見える松林から道路のすぐ下まで、一面に広がる田畑の中に家屋の瓦礫と壊れた車が、まるで撒き散らしたかのように散乱していて、その光景が走っている車の窓の外でずーっと続いているのです。ずーっと、です。一体どれほどの量の波が襲ってきたのか・・・言葉を失ってしまいました。
 高速を下りて市街地に入ると、一見何事もなかったかのようなごく普通の街が、生活がそこにあって、先ほどの光景とのあまりのギャップに一瞬戸惑いを感じましたが、それでも一本角を曲がると、すぐそこには瓦礫が山積みになっていたり、壊れた家具や使えなくなった畳や家電製品が家の外に片付けのために出してあったり、家の外壁に水が来た高さに沿ってくっきりと線が残っていたりなど、あちこちに被害の跡が見えました。その中で、家の片づけをしている人や工場で工具の手入れをしている人、お店の掃除をしている人、ガス工事の人、瓦礫の撤去に重機を操る人、その前で車の誘導をする警備の人、それぞれに懸命に生活している人たちの姿がありました。
 支援物資(食品セット・生活セット・お米・カセットコンロ・ボンベ各50!加えて新品のお布団セット50組、皆さまにとても喜んで頂けました)を車から運び終えた後、ブランさんのお店の中で、津波で奥様を亡くされたという方のお話を伺いました。リンパマッサージのお仕事を生き甲斐のように頑張っていらして、お客様からも信頼され慕われていて、震災当日も最後の最後までお仕事をされていた奥様のことをとても誇りに思っていらっしゃるようでした。自然災害だから仕方ない、おそらくは、きっと寿命だったんでしょう、好きなことをやって亡くなったのだから、と奥様の思い出話を、まるでご自身に言い聞かせるようにとつとつと語っていらっしゃいましたが、途中「津波のヤロウが・・・!」と何度も何度も繰り返し言葉を詰まらせてもおられました。それでも「子どもたちと支えあってしっかり生きていきます、ネパリの皆さんをはじめ周りの方の励ましのおかげです、ありがとうございます!」と力強く仰っていました。物資の運び入れを手伝いに集まってくださった他のたくさんの方々からも、たくさんのお礼の言葉を頂きました。
「ネパリさんの生活セットのおかげで希望がもてました!」「お布団が嬉しいです!今まで長座布団で寝てましたから!」「こんなにしょっちゅう来るんだったらいっそネパリ石巻支部を作ってください!」「なによりも、気持ちが嬉しいんです。本当にありがとうございます!!!」などなど、書いても書いても書きつくせないほどです。みなさんのお言葉に、こちらが元気を頂きました!
 この後、ブランさんにいらしていたお二方の案内で北上町へ向かいました。車で石巻の旧繁華街というようなところを通って行く時、「大分片付いては来た」と話されていましたが、それでもまだ床上浸水の影響で壊れたままのシャッターや積み上げられたままの瓦礫があちこちに見受けられました。なかには、どうしたらここまで?と目を疑ってしまうような、一階部分に車が突っ込んだ家や、屋根が半分以上崩れてしまっている家などもありました。津波が襲った直後の状況は、まったく想像を絶するものだったと思います。その状況を乗り越えて頑張っていらっしゃる石巻の、そして同じように今回の震災で被災された他の地域の方々のお気持ちを思うとただただ、胸が痛くなります。
 市街地を抜けて少し郊外へ出たところに専修大学があり、そこがボランティアの活動拠点になっているということでした。すぐ近くに石巻赤十字病院、自衛隊の活動基地もこのすぐ近くでした。そのすぐ隣では、仮設住宅の建設も始まっているようでしたが、完成までにはまだ時間がかかりそうな様子でした。
 到着した北上町の様子も、想像をはるかに超えた被害を受けていました。お話ではほぼすべての家屋が全壊か半壊、もしくは床上浸水とのことでした。ここでもあたりの田畑は一面瓦礫の山に覆われていて、さらに津波の影響がもっとも大きかった沿岸部では道路自体がなくなってしまっていて、復旧工事を進めるためにとりあえず仮の道路を作って車を通している状態でした。
 案内してくださった方の家があった場所に連れて行って頂きました。目の前の海は白浜海水浴場、道路を一本隔ててすぐお庭があり、少し入ったところが玄関だったそうです。いまは基礎のコンクリートだけが残っています。「ようこそ!我が家へ!!」と仰る笑顔にどう応えていいか判らず、お邪魔しますと玄関に立つしかありませんでした。
 防波堤などまったく役に立たなかったそうです。何とか避難したすぐ近くの高台の丘の上から、ご自分の家が波にさらわれて、流されていくのを、ただ見ているしかなかったそうです。更に、どうやら災害危険区域に指定されてしまったらしく、もう同じ場所には家を建てられないそうです。「嫁にきて年、全部なくなりました」言葉ではなにげなく仰いましたが、とても伺い知れない重いものを感じました。それでも、とにかく明るいんです。「みなさんに助けられて、なんとかやってますから。感謝!感謝です!」「とにかく自分が動いていれば周りも動き始めると思うんです」と、時にユーモアを交えながら、常に明るく元気でいることを心がけていらっしゃるようでした。
 今回の経験を決して無駄にしないよう、被災地の方々のために、そして日ごろお世話になっている皆さまのために、自分にできることで精一杯お手伝いさせて頂きたいと思います。

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