シリンゲのコーヒー生産者とは、1996年頃からのお付き合いです。厳しい生活状況と知りながら、毎年、1、2トンしか購入することができませんでしたが、2009年、グルミのコーヒーのほぼ全量を韓国市場に出すことになり、私たちは、シリンゲの生産者との本格的な取り組みを開始しました。
シリンゲ地域は、約20年前にUMN(※)の農業開発プロジェクトが入り、パイプを引いて水路を作り、農業技術、子育て、トイレの作り方などを教えました。初めはカナダ人グループ、次いでオランダ人の2家族が住み込んで、コーヒー栽培も教えました。野菜を含め、村の今日の有機栽培の基礎が築かれました。私たちは、その基礎の上に、農民と将来のビジョンを何度も話し合い、有機栽培に関する再教育、トレーニングの機会を作りました。そして、協同組合の設立と登録、運営のための体制整備と有機証明取得のための書類作成、申請手続き、オーストラリアの認証機関との度重なるメールのやりとり、検査官の現地案内など、たくさんの使命を負いながら、後継世代を育てることまで含めて活動してきました。
Coffee Women Story
コーヒーの担い手はここにも!
文:土屋春代
シリンゲ村のコーヒー栽培による生活向上計画に重要な役割を果たしている女性たちがいます。もちろん村の女性たちは協同組合の会議にも積極的に参加し、収穫や選別も行いますが、カトマンズにも支えている女性たちはいるのです。
カトマンズに届いた生豆を再び丁寧に選別する女性たち。それぞれの厳しい家庭事情を背負って、豆の選別で家族の生活を支えながら、シリンゲコーヒーの高い品質を守っています。
さらに、輸出に必要な書類の手配をし、選別した豆を日本に送ってくれる、リチューアルフライトのスタッフ、ラクシュミさん。(P.12参照)彼女は村から送られてくる書類や情報を英語に訳したり、有機証明取得に関するデータ管理などの事務的な仕事を担い、しっかりと完二さんの申請手続きをサポートしています。農業の専門用語や村独特の生活様式がからみ、彼女の懸命な努力がなければ、日本に居て村のことを熟知し、細かく厳しい要求を受ける大量の申請書類を作ることは難しくなります。
シリンゲ村物語を構成する人物として重要な役割を担いながら、これまでスポットの当たらなかった女性たちに今回は登場していただきましょう。
カトマンズのカランキという町に輸出入代行会社「リチューアルフライト」の経営者、ディリーさんの家があります。その家の一角は、シリンゲ村のコーヒーの再選別所であり、倉庫ともなっています。ネパリ・バザーロがネパールコーヒーの輸入を開始した1994年から今日まで、惜しみない協力を続けるディリーさんは、自分の傍に置いておかないと不安だとばかりに、ずっとスペースを提供してくれています。カランキは、各地からの長距離バスの集まる所で、シリンゲのコーヒーが載ってくるバスもここに停まります。 ディリーさんのお宅にコーヒー豆の再選別に通ってくる4人の女性たちに近況を伺おうと、2011年11月、お邪魔しました。もう一つ、ディリーさんのお姉さんのおいしい手料理をいただこうという密かな目的もありましたが。
それぞれのワーカーのお宅を訪ねて事情を伺ってから早くも2年が過ぎていました。その後、韓国のバイヤーがグルミのコーヒーの再選別所を新たに設置したり、シリンゲのコーヒーが害虫被害で思うように収穫できなくなったりと不測の事態が続き、選別の仕事が激減してしまいました。仕事量に応じた給与制度なので、彼女達に何の落ち度もないのに収入が減ってしまうため、状況の詳しい説明にディリーさんの家に集まってもらいました。害虫被害の木は伐らねばならず、新たに木を植えても収穫できるまで数年かかります。有機証明取得のために参加農民を固定化していて、直ぐには新しいメンバーも増やせない状況が重なり、もし他によい仕事があったら転職してくださいと伝えました。ところが、皆、ずっとネパリと仕事をしたいから、コーヒーの収穫量が増えるまで給与が減っても待ちますと言ってくれました。そこで、仕事のない月は休業補償として、給与の半分を支払い、セービングファンド(*)の本人積立分を立替えて今日まできました。ようやく、2012年は収穫量が戻りつつあるという朗報が入り、ほっとしました。困難な時期に耐えてくれた彼女たちに今後の見通しを伝え、それぞれの生活状況を伺うため、一人ひとりとお話しました。
ラクシュミさん(24歳)はリチューアルで働き始めて約3年になります。朝6時から9時半までは大学で学んでいます。ネパールは働きながら学ぶ人が多いので早朝から授業が始まります。まだ暗い内に学校に行き、その後、出勤し、残業で遅くなることも多いので「頑張るね!辛くない?」と聞くと、「家から事務所まで歩いて30分しかかからないし、大学も途中にあるから大丈夫!」とニコニコ。
ラクシュミさんは3人兄弟の末っ子です。11歳の時に父親を亡くし、母親と学校をやめた長兄が働いて家計を支えてきました。次兄は6年ほど前からドラッグに溺れ、今も仕事をしていません。その話になると顔が曇り、「働いてお金を貯めて、ドラッグから立ち直れるよう施設に入れたい」と言います。
仕事を始めた頃、毎日のように遅く帰る娘を母親は案じて、「早く辞めたほうがよい」と言っていたそうです。けれど、熱心に仕事に取り組み、報われるとうれしそうな娘の様子を見て、よい仕事に出会えたことを知り喜んでくれるようになりました。また、ボスのディリーさんが遅くなった時はきちんと家まで送ってくれるので安心し、今ではこの仕事を続けられるように応援しているそうです。
銀行などの金融機関や大手企業に勤める友人たちは、世間から高く評価される職場とよい給与を得て、最初は喜んでいましたが、仕事だけで終わってしまう人間関係や利益のみを追求する企業の姿勢に疑問を感じ始め、会社は小さくても家族的な温かい職場で、人や社会にも貢献でき、やりがいのある仕事をしているラクシュミさんをとてもうらやましがるそうです。たくさんの素敵な出会いがあり、貴重な経験のできるリチューアルの仕事をラクシュミさんは「こんな職場は他にない。自分はラッキー!」と、喜びます。将来もっと社会に貢献できるように自分を磨きたいと言うラクシュミさんはとっても輝いてみえました。そんな彼女を見ている私の顔がうれしさにデレデレだったと、隣で聞いていたLa MOMOのひろさんに、後で笑われました。
シリンゲから戻った後、「村はどうだった?」と聞くと、「やっぱり行ってよかった。初めてでも、ケサブさんもユブラジさんも居てくれたから何も困らなかったし」と、やや疲れた様子ながら、訪問がとても充実していたことを感じさせてくれました。「また行きたい?」と聞くと、「ええ、でも、道がもっとよくなって車で行けるようになってからね!」。歩くことにはかなり参ったようです。
Column
ラクシュミさん
初めての村訪問
文:丑久保完二
2010年12月、待望の有機証明を、一番厳しいと云われるオーストラリアの認証機関・NASAAから取得。そして、翌年の2011年11月、年に一度の外部検査に同行しました。ラクシュミさんとLaMOMOの土屋ひろさんも一緒に訪問しました。カトマンズで生まれ育ち、村の生活を知らないラクシュミさんにとって、現地を知る絶好の機会、そして、今後の仕事をスムーズに進めるためにも必要な体験です。崖を削った、やっと通れるほどの険しい道をジープで進み、さらに、道なき道を徒歩で登り降りする行程はラクシュミさんにとって初めての経験。あまりの厳しさに「キツイ!もうダメ!」と苦しそうに呻きつつも必死に歩いていました。2時間ほど歩いて村の中心部に到着しましたが、2年前までは8時間かかり、電気もなかった村でした。今は、電気もくるようになり、アクセスもだいぶ改善されました。しかし、まだまだ、厳しい生活は続いています。そんな中でコーヒーの販路が開け、スパイスも取り組みが予定され、将来を担う若い人材が、村ではケサブさん、街ではラクシュミさんのように育ちつつあり、皆の希望の光となっています。