Posted by kan on 2011年6月16日
ネパリ・バザーロが1992年から生活支援を続けている「モーニング・スター・チルドレンズ・ホーム」は、ネパール人のご夫婦ビシュヌさんとムナさんが、自宅に身寄りのない子どもたちを引き取り、家族同様に育てているホームです。出会ったころは7、8名の子どもたちでしたが、経済状況の厳しさが続く中、政情不安も重なり、多くの子どもたちが行き場を失い、ビシュヌさんのホームに身を寄せるようになり、常に50名以上の子どもたちが暮らしています。親を亡くした子、災害で家族離散してしまった子、マオイストに親を殺された子、親がいても養育を受けられず街へ出てきた子・・・ビシュヌさんとムナさんの温かい愛情と、子どもたち同士の交流で、明るい笑顔を取り戻し、元気に学校に通っています。
1990年に子どもたちを引き取るようになってから今までにホームを巣立っていった子は300人にもなります。ホームを離れてからも近況を伝えてくれるそうです。学校の教師になった子が約50名。外国に出稼ぎに行っている子、自分で事業を興した子もいます。8割近くの子が結婚しています。
ビシュヌさんたちの実の娘のジョティ・パラジュリさん(21)は、共に育ったスニタ・タマンさん(24)と一緒に2008年に看護学校を卒業し、病院でのトレーニングを受けています。
子どものころから下の子の面倒をよく見ていたサビトリ・シュレスタさん(28)は、2002年に結婚してホームの近くに住んでいます。2007年にネパリのスタッフ、ボランティアが大勢でホームを訪れた時には夫や子どもと一緒に駆けつけてくれました。
アルジュン・ダカルさん(32)とレベッカ・ダカルさん(27)の兄妹は、ネパリが支援を始めたころからホームにいたので、私たちにとっても思い入れの深い二人です。アルジュンさんは高校卒業後、ネパリの支援で大学に進み、卒業後はビシュヌさんの紹介で教会関係の出版の仕事に就きました。ホーム最年長のしっかり者で、ビシュヌさんの片腕となり頼りにされていましたが、本人の希望で部屋を借りて独立しました。2003年に結婚し、身寄りのない子を引き取り、ホームを始めました。今はNGOでマネジメントの仕事をしながら10人の子どもたちの面倒を夫婦で見ています。レベッカさんは卒業後ホテルの受付の職に就きましたが、2004年に結婚し、夫の働くアブダビへ移りました。二人の男の子の母親となり、最近カトマンズに一家で戻ってきました。
「ネパリ・バザーロの皆さんが20年近くにわたりモーニング・スター・チルドレンズ・ホームを支援してくださっていることを、とても幸せに思います。また、以前私に教育支援をしてくださったことも深く感謝します。私には親のない、貧しく、恵まれない子どもたちへの強い想いがあります。自分も同じ境遇だったので、彼らの気持ちがよくわかります。ホームの運営には多くの困難も伴いますが、ネパールのこうした子どもたちを助けたいという想いが変わることはありません」(アルジュン・ダカル 2010年5月)
Posted by kan on 2011年6月16日
シディマンさんの仕事部屋からは、
いつも心地よい音が響いています。
左手には彫刻刀を、右手には木槌代わりの木片を持ち
縁取りは力強く、『タタタン、タン』
慣れているラインは、『トントン、トントン』
仕上げの微調節はやさしく、『トトン、トトン』・・・
その間に、板はクルクル回り、彫る刃は次々替わります。
傘の骨や自転車のスポークから作った
カーブが急なもの、なだらかなもの、
太いもの、細いもの、
全てが微妙に違う25種類の刃から
ラインに合わせて
どれがちょうどいいか瞬時に判断し
少し彫っては、クルクルっと板を回して彫る角度を変え
溜まった木くずを『ふぅー』っとやさしく飛ばし
そしてまた刃を替えて彫り進めます。
一連の作業がリズムにのって繰り返され
少しずつ、少しずつ、スタンプが完成に近づきます。
一日に作れるのは5、6個くらいだそうです。
シディマンさんと出会って19年間。
このリズムの繰り返しが
色々なことを物語ってくれているような気がしました。
できあがったスタンプは、
木の温もりにシディマンさんの心が加わって
とても、とても温かく感じました。
Posted by admin on 2011年6月16日
シリンゲは、ラリトプール郡の最南端に位置します。起伏が激しいカブレ、マクワンプルに接し、行き来の難しい所です。カトマンズからバスを乗り継いでほぼ1日掛かり、そこから徒歩で険しい山道を8時間以上歩くとシリンゲに辿り着きます。冬の2月でも朝8時ともなるととても暑く、じっとしていても汗ばむほどで、5月は40度を超えます。
2009年秋号(VOL28)でもご紹介したコーヒーの生産地、シリンゲのその後をお伝えします。
シリンゲへの道が少しずつできています
2010年2月17日からの訪問は、昨年2月、5月に続き、3度目になります。昨年よりも道路が延び、チョンナンプールやナムンダラから歩いていた頃に比べると4時間の短縮になりますが、雨期やその直後は、やはり8時間以上歩く必要があります。
車は7時半にネパールの首都カトマンズを出発。スンコティ、テツ、チャパガウン、レレ、ノルーを経てチョウガリに着く頃にはお昼近くになり、ここでお茶休息をして再び走り始めました。ゴッティケル、チョンナンプール、そしてナムンダラ。チョンナンプールかナムンダラが今まで車で行けた最南端です。ここで、再び休息。村人が宿泊に利用する質素な施設もあります。茶屋に入ると、主人が「おう!また来たね。ナマステ」と笑顔で迎えてくれ、小麦粉を揚げたパンのような、ほんのりと甘く美味しいマルパを頂きました。時間は既に1時半を回っていました。そこへ村人を代表して数人が、コーヒーの実と葉っぱで作った首飾りと国の花ラリグラスを持ち、迎えにきてくれました。この季節は山のあちらこちらに、ラリグラスが咲き、とても綺麗です。
ナムンドラの先に道がなかなか延びなかった理由の一つは、この地の経済的ダメージを恐れる人々の反対があったことでした。道が延びれば、人々はここに留まらず素通りしてしまいます。休憩や食事、宿泊する人が減ってしまうことを危惧して道路延伸に反対していました。しかし、あまりに険しい地理的状況下では、地域全体の人々の暮らしの改善を考えることが必要です。粘り強く説得を重ね、ようやく、その理解を得て、道を延ばすことができるようになりました。
車は新しく切り開いた道を走り、工事中のところに着きました。ここからは4時間になったとはいえ、急斜面の上り下りが待っていて、難所であることに変わりはありません。道路工事にかかわっているミラン・スヌワールさんも、シリンゲ協同組合のメンバーです。作業している所に近づくと、斜面の石や土を砕き除く工事用機械を誇らしそうに指差して、運転席に座ってみろと誘ってくれました。
さあ、この場所から、いよいよ徒歩でいかねばなりません。毎回、往きは張りきっているので良いのですが、帰りは、村の中を歩き回った疲労も加わり、急斜面の道は大変堪えます。そのことが頭をよぎり、気持ちが引き締まりました。
シリンゲの宿へ
村に着くと、変わらず村を見守るようにカレソール山がそそり立っています。自然の厳しさと、そこに住む村人のたくましさを象徴しているかのようです。起伏に富んだ手付かずの自然の中で暮らすこの地域では山猫に家畜が食べられる被害もでています。
今回の目的は、有機証明取得要件が整備されているか、現在の村人がかかえる問題点は何か、今後の生活改善を目指すなかで何ができるかを、各家庭を訪問しながら話し合っていくことです。村での宿泊場所は、シリンゲの中心にある、コーヒー協同組合のメンバー、デゥラルさんのお宅です。メンバーの家々、そして、その畑を見て状況の把握をしながらデゥラルさんの家に到着。昨年訪問した時にバドミントンで一緒に遊んだ子どもたちが待ち構えていて、休む間も与えられず早速バドミントンを始めることになりました。
シリンゲ協同組合のメンバー訪問
シリンゲコーヒー協同組合員は、トップカーストのブラーマンから、チェトリ、タマン、ダリット(アウトカースト)を含み、カーストを超えて仲良く運営しています。理事も同様に多くのカーストを含み、バランスをとっています。これは、法律上はカースト差別が禁止されたとはいえ、いまださまざまな場面に偏見と差別が根強く残るネパール社会にあって、とても画期的なことです。
昼間は、家庭訪問を行うため、村人とのミーティングは全体会議だけ到着翌日の午前中に行い、その他は夕食後の遅い時間に行いました。30分、1時間とかけて、夜道を来るのは大変なことです。それでも皆毎晩集まり、夜12時過ぎまで活発な意見交換をしました。家庭訪問も、滞在が限られているので、真っ暗になるまで時間を惜しんで歩き回りました。いざ帰ろうとすると、誰も懐中電灯を持っていません。この辺一帯を知り尽くしている村人たちも、さすがに暗闇では急斜面を歩けません。私が持参した、いつ消えるかわからない簡易ライト3個をたよりに6人で宿泊場所まで帰ることになりました。
仲間はずれにされる背景とはね返す力
シリンゲコーヒー協同組合のメンバーたちは、教育をほとんど受けていないことやあまりにも貧しいことを理由に、今日に至るまで地域のなかで見下され差別されてきました。
協同組合を設立し代表となったバドリさんはそうした偏見や差別に屈せず16年間コーヒーの市場を細々ながら守ってきました。そんなバドリさんを現在カトマンズで輸出入代行会社を経営しているディリーさんとネパリ・バザーロが長年支え続けてきました。更に、協同組合設立の実現には組合員の農民たちの団結とバドリさんに寄せる強い信頼がありました。だまされて土地を取り上げられそうになった時、バドリさんがお金を工面して助けてくれたという人や、コーヒー栽培のことを手取り足取り教えてもらい僅かでも現金収入を得られて助かったという人、自分の利益だけを考えるのではなく、周囲の困窮している人々に手を差し伸べるバドリさんの姿を見てきた人たちが集まり、結束を切り崩そうと激しい圧力がかけられる中、バドリさんを盛り立て支えてきました。
西ネパールのグルミのコーヒー生産者たちに韓国という市場を紹介した私たちは、16年の歳月を経て、ようやく、ここ、シリンゲのコーヒー農民の支援活動に本格的に取り組むことができるようになりました。国際基準の有機証明取得を目指し、未組織だった彼らを協同組合に組織化することから始めました。見下してきた人々は、シリンゲの農民たちが年間1トン、2トンのコーヒーを売っていたときはさほど気にしていませんでしたが、ネパリ・バザーロという後ろ盾を得て組織化されては無視できない存在になってしまうと恐れました。そこで、協同組合にできないように妨害を試みましたが、シリンゲを応援するディリーさんの協力と農民たちの強い意志で、それは失敗に終わりました。しかし、彼らの思惑は、次なる画策に繋がっていくことになりました。国際NGOの出先機関やコーヒーブローカーとの思惑、利害とも一致し、結束した彼らは、より強大な力となってシリンゲを孤立させ、大きな組合の下に置いて支配し、力を蓄え自立することを阻もうとしました。これはシリンゲだけでなくどこにも在り得ることだと思いますが、弱い立場の人々は、常にその状況下に置かれる構造がある、ということです。学際的な研究は進み、どのような仕組みを導入すれば生活が向上できるか、などなど理論は明確になってきていますが、それを実践する人の利害や思惑がそれを阻む要因でもあることを教えてくれています。粘り強い挑戦は、これからも続きますが、他者から支配されることをよしとせず自立を目指す志の高い人々を応援できることは光栄で、これまで培ってきた全ての力を注ぎ頑張りたいと思います。