石巻(北上町)訪問

4月30日、5月1日と訪問したスタッフの印象です。

・私にとっては、今回は3回目の東北訪問となりました。石巻は3度目です。一度目の釜石訪問のときに、サポート会員の方からメールが入り、Uさんの、「たずねよう!」という強い意志で、予定を延長して訪れたのがきっかけです。そこで、石巻のお店に伺い、そこから石巻支援がスタートしました。一度目は、市街地にも多くがれきが残っていて、あちこちで炊き出しをしているのが目に入りまいした。2度目には、その市街地のがれきはずいぶん整理されましたが、石巻港を訪れて、愕然としました。魚の加工工場などがたくさんあったので大きな缶詰のモニュメントがごろん、と転がっていたり、瓦礫の量も半端ではありませんでした。3度目の今回は、Kさんの報告にもあったように、市街地からは離れた北上を訪れましたが、ここは跡形もなく、岩手県の大槌町のような状態でした。
 ブログの写真にもありますが、車が家の上に乗っかっていました。その車は、我が家と全く同じ車で、張ってある「baby in car」のステッカーまで一緒で、とても苦しくなりました。その家は、おじいさん、おばあさん、40歳のお嫁さんが流されてしまったそうです。
石巻のお店さんに、到着するとすぐにバケツリレーが始まりました。ただ、一人ひとりの距離が短くて、「効率悪いねー」とみなで笑いながらリレーしました。狭い店内に、50セット計100段ボールと米とカセットコンロがしっかり入りました。その後、集まっていた方のお話を伺うことができました。年配の男性が28年間寄り添った奥さんを流されてしまったこと、夢が実現して好きな仕事で、生き生きとがんばっていたのに、「津波のやろう、おれが一人でむかっていきたいけど・・」なんと言って良いか言葉がみつかりません。ただ、この方の言葉はずっと自分の中で大切にしておきたいです。出会った、一緒にバケツリレーをした、この人の悲しみを、寄り添う、簡単じゃないですが、ネパリを通して、ずっと大切にしたいです。
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・石巻へ向かう車中で被災地に近づいていることを最初に感じたのは、「災害派遣」の横断幕をつけた自衛隊の車両を見た時でした。仙台に入った辺りから次第に数が増えてゆき、その後は石巻の市街地に入ってからも当然のようにごく普通に走っていました。理由は後で判明するのですが、石巻赤十字病院の近くに自衛隊が活動拠点として臨時に基地を構えていて、そのため多くの自衛隊車両が石巻近辺を通行しているようでした。
 津波の被害を目の当たりにしたのは、仙台東部道路という高速道路に入った直後です。後で確認したところ、そこが仙台市若林区という地区でした。道路と海岸線がほぼ平行して走っているのですが、海まで2~3kmは離れて
いるでしょうか、はるか向うに見える松林から道路のすぐ下まで、一面に広がる田畑の中に家屋の瓦礫と壊れた車が、まるで撒き散らしたかのように散乱していて、その光景が走っている車の窓の外でずーっと続いているのです。ずーっと、です。一体どれほどの量の波が襲ってきたのか・・・言葉を失ってしまいました。
 高速を下りて市街地に入ると、一見何事もなかったかのようなごく普通の街が、生活がそこにあって、先ほどの光景とのあまりのギャップに一瞬戸惑いを感じましたが、それでも一本角を曲がると、すぐそこには瓦礫が山積みになっていたり、壊れた家具や使えなくなった畳や家電製品が家の外に片付けのために出してあったり、家の外壁に水が来た高さに沿ってくっきりと線が残っていたりなど、あちこちに被害の跡が見えました。その中で、家の片づけをしている人や工場で工具の手入れをしている人、お店の掃除をしている人、ガス工事の人、瓦礫の撤去に重機を操る人、その前で車の誘導をする警備の人、それぞれに懸命に生活している人たちの姿がありました。
 支援物資(食品セット・生活セット・お米・カセットコンロ・ボンベ各50!加えて新品のお布団セット50組、皆さまにとても喜んで頂けました)を車から運び終えた後、ブランさんのお店の中で、津波で奥様を亡くされたという方のお話を伺いました。リンパマッサージのお仕事を生き甲斐のように頑張っていらして、お客様からも信頼され慕われていて、震災当日も最後の最後までお仕事をされていた奥様のことをとても誇りに思っていらっしゃるようでした。自然災害だから仕方ない、おそらくは、きっと寿命だったんでしょう、好きなことをやって亡くなったのだから、と奥様の思い出話を、まるでご自身に言い聞かせるようにとつとつと語っていらっしゃいましたが、途中「津波のヤロウが・・・!」と何度も何度も繰り返し言葉を詰まらせてもおられました。それでも「子どもたちと支えあってしっかり生きていきます、ネパリの皆さんをはじめ周りの方の励ましのおかげです、ありがとうございます!」と力強く仰っていました。物資の運び入れを手伝いに集まってくださった他のたくさんの方々からも、たくさんのお礼の言葉を頂きました。
「ネパリさんの生活セットのおかげで希望がもてました!」「お布団が嬉しいです!今まで長座布団で寝てましたから!」「こんなにしょっちゅう来るんだったらいっそネパリ石巻支部を作ってください!」「なによりも、気持ちが嬉しいんです。本当にありがとうございます!!!」などなど、書いても書いても書きつくせないほどです。みなさんのお言葉に、こちらが元気を頂きました!
 この後、ブランさんにいらしていたお二方の案内で北上町へ向かいました。車で石巻の旧繁華街というようなところを通って行く時、「大分片付いては来た」と話されていましたが、それでもまだ床上浸水の影響で壊れたままのシャッターや積み上げられたままの瓦礫があちこちに見受けられました。なかには、どうしたらここまで?と目を疑ってしまうような、一階部分に車が突っ込んだ家や、屋根が半分以上崩れてしまっている家などもありました。津波が襲った直後の状況は、まったく想像を絶するものだったと思います。その状況を乗り越えて頑張っていらっしゃる石巻の、そして同じように今回の震災で被災された他の地域の方々のお気持ちを思うとただただ、胸が痛くなります。
 市街地を抜けて少し郊外へ出たところに専修大学があり、そこがボランティアの活動拠点になっているということでした。すぐ近くに石巻赤十字病院、自衛隊の活動基地もこのすぐ近くでした。そのすぐ隣では、仮設住宅の建設も始まっているようでしたが、完成までにはまだ時間がかかりそうな様子でした。
 到着した北上町の様子も、想像をはるかに超えた被害を受けていました。お話ではほぼすべての家屋が全壊か半壊、もしくは床上浸水とのことでした。ここでもあたりの田畑は一面瓦礫の山に覆われていて、さらに津波の影響がもっとも大きかった沿岸部では道路自体がなくなってしまっていて、復旧工事を進めるためにとりあえず仮の道路を作って車を通している状態でした。
 案内してくださった方の家があった場所に連れて行って頂きました。目の前の海は白浜海水浴場、道路を一本隔ててすぐお庭があり、少し入ったところが玄関だったそうです。いまは基礎のコンクリートだけが残っています。「ようこそ!我が家へ!!」と仰る笑顔にどう応えていいか判らず、お邪魔しますと玄関に立つしかありませんでした。
 防波堤などまったく役に立たなかったそうです。何とか避難したすぐ近くの高台の丘の上から、ご自分の家が波にさらわれて、流されていくのを、ただ見ているしかなかったそうです。更に、どうやら災害危険区域に指定されてしまったらしく、もう同じ場所には家を建てられないそうです。「嫁にきて年、全部なくなりました」言葉ではなにげなく仰いましたが、とても伺い知れない重いものを感じました。それでも、とにかく明るいんです。「みなさんに助けられて、なんとかやってますから。感謝!感謝です!」「とにかく自分が動いていれば周りも動き始めると思うんです」と、時にユーモアを交えながら、常に明るく元気でいることを心がけていらっしゃるようでした。
 今回の経験を決して無駄にしないよう、被災地の方々のために、そして日ごろお世話になっている皆さまのために、自分にできることで精一杯お手伝いさせて頂きたいと思います。

 今回の訪問は、ネパリ5回目、私は2回目となりました。Sさんでは、たくさんの方が私たちの到着を待っていてくださいました。今回は50セット!箱が100個に、お米、コンロ、ボンベが50個です。車が2台着くなり、バケツリレーが始まりました。距離はあまりないところに、たくさんの人がいるので、全く動かず、体を回転させるだけで次の人にバトンタッチ。効率がいいのか悪いのか、分かりませんでしたが、何か皆でワイワイととても楽しかったです。「米だと思うと、とっても軽いねぇ」あきたこまちの米袋を見て、「ほらぁ、秋田の人たちも応援してくれているよ。有難いねぇ」「これだけセットするのも大変だったよねぇ」その時、隣にいた方が、「私メールとか苦手だから、お手紙書いたのよ。」とおっしゃられました。「あなたのことも、写真で見たから知ってるよ。本当に、皆さんの笑顔が印象的で」
先日MLでもご紹介した、お母様を津波で亡くされ、パートナーの方が復興作業のアルバイトをされていて、いつもおにぎりをお昼に食べられるので、焼き海苔がとても嬉しかったとお手紙をくださったAbさんでした。「本当に嬉しかったの」と何度もおっしゃられ、私はいろんな想いが交差して、すぐに言葉が見つからず、頷くことしかできませんでした。もっとゆっくり話せたらなぁ、こういえば良かったなぁ、ああ言えば良かったかなぁ、何て後になっていろいろ思いましたがその時は本当に言葉が出ませんでした。その後、奥様を津波で亡くされた男性の方が、奥様の最期を語ってくださいました。好きな仕事をして、最高の人生だった、幸せだったと、何度も何度もご自分に言い聞かせるように、言葉を詰まらせながらおっしゃっていました。「津波ヤロウ・・・」この言葉は私もとてもショックでした。辛い気持ちが言葉になるまで、どれだけ大変だっただろうかと思いました。話を聞きながら、涙が止まりませんでした。せめて私にできることは、元気を届けることだから、笑顔でいよう、泣いたらだめだ・・・と思えば思うほど涙が止まらなくなってしまったので、無理はやめて、余計なことを考えないで、素直に心で聴こう、気持ちを共有しようと思いました。本当に悲しかったです。
 ニュースで流れる死者・行方不明者の数からは、想像もしきれない悲しい辛い、壮絶な経験が、その何倍も何十倍もあるのだと思いました。でも、最後はその男性の方、「私には振り乱す髪もないからね」と皆に冗談を言っていて、本当に辛い経験をされた方とは思えない思いやりのある、優しくあったかい気持ちを感じました。
 布団セット50組は、支払いを済ませ、取りに行って頂くことにしました。そのことをお伝えすると、皆さんとっても喜ばれていました。布団の喜び方は、格別です。その表情を見て、すぐにでも次の分の予約をしたい!!と思いました。震災からもう2ヶ月近く経つのに、基本的な生活セットがここまで喜ばれるなんて、物はあるのに、たくさんの義援金もあるのに、必要な人には届いていない現状が、とても悔しいです。
 その後は、Kさんと、芸術家のMさんのご案内で、北上町にあるSさんのご実家に行きました。どちらも、全壊地域で、居住禁止区域にされていました。川が海にちょうど合流するあたりでした。これだけの被害をもたらした海とは思えないほど、ゆったりと、穏やかな海でした。ちょうど車を降りたとき、目の前に虹がかかっていました。本当にきれいでした。でも、耳を澄ますと、波が堤防に当たる音が津波を思わせ少し怖くなりました。「津波がくるまでは、ここは自慢だったの。」目の前が海で、本当にきれいで、きっと自然と共に豊かな暮らしをされていたんだろうなと思いました。この辺りの整備は後回しにされているのか、まだまだ瓦礫の山で整備されていない状況でした。そして、たくさん虫が飛んでいました。気がついたら私も刺されていたようで、かなり赤くはれています。海水に浸かった布団もありました。触ると、まだぐっしょり湿っていました。これを乾かして寝ている方々がいるなんて・・・一瞬で変わり果てた、自分がずっと愛して暮らしていた地・・・どんなに悲しく辛いことだろうと思いました。
 Kさんは明るく振舞われていて、皆でKさん宅があった場所、土台だけの玄関におじゃまして写真を撮りました。「何か今日は楽しいねぇ。ピクニックにきたみたい」と車の中でもおっしゃっていました。ここまで気持ちを持っていくまで、どれだけ大変だっただろう・・・今でも辛い気持ちを何とか抑えながら、きっと前に進もうと頑張っていらっしゃるんだろうなと思いました。「自分が動いていれば、きっと環境がついてくるから」「人っていう字は、支えあって成り立っているんだよね。本当に、皆に助けられて、感謝です」 
 帰りの車の中でも、細い道に、復興作業をしている車が止まっていて狭くて通りにくかったのですが、「こんな時間まで復興作業してくれていて、有難いね。」「復興作業の皆さん、ありがとう!」 ペコリ「自衛隊さん、ありがとう!」 ペコリ と、皆でお礼を言いながら、側を通りました。お父さんを亡くされた大学生の女性の方も家を見に来ていました。Kさんが、「お母さんがいるから大丈夫、頑張って。たくさん帰ってきてね」と何度も何度も声をかけられていました。涙が止まらなくって、見ることができませんでした。人間の心は本当に複雑で、きれいごとでは済まされない部分もたくさんあって、でも人と人のつながり、感謝する気持ち、思いやり・・・かけがえのない大切なものもそこにはあって、言葉にならないいろんなことを感じました。

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