被災された方からの声20110520中間報告添付

 3 月11 日、私の実家の母の誕生日でした。週の半分以上は必ず顔を合わせるというくらい、実家とは仲が良く、
特に孫たちを本当に大切に可愛がってくれていました。父も母も花が大好きで、よく花の手入れをしていました。
我が家の庭にも父と母にもらった、クレマチスや睡蓮、山紫陽花にクリスマスローズ…たくさんの花や父が作っ
てくれた縁台などがありました。
 
 その日も、午前10 時頃、親戚の家に届けものをする途中だと言う父が築山四丁目の我が家に立ち寄り、次男
を連れて親戚の家へゆきました。「今晩はばぁちゃんの誕生会をしよう」と庭先で三人で計画をたて、私は大皿
でグラタンを焼く準備を、父は親戚の家からの帰り道夜のためのお酒を買いに。その後は、次男を含めた四人
と実家の犬一匹で実家で遊んでいたようです。
 
 地震直前、築山四丁目の我が家に長男が帰宅しました。三年生になったら使う真新しい習字道具を誇らしげ
に持って。荷物をおき、熱々のグラタンを持って、行きながらばぁちゃんの誕生会のケーキを買おう、と長男
と二人で玄関で靴をはこうとしたとき、カタカタと揺れ始め、あっと言う間に家が斜めに曲がるのが見えるほど、
激しく揺れ、玄関の壁に大きな亀裂が入りました。長男を抱きしめて座っているのがせいぜいで、身動きがと
れないほどでした。揺れが小さくなったり大きくなったり、いっこうに止まない揺れにパニックになりながら
も外にも出られる他の部屋へ移動し、なんとか身を守るために防寒着と帽子を着せ、手元にあった子供のリュッ
クを背負わせました。外に出ると家の前の道路に大きな亀裂が走っていました。避難場所へ行くべきか、次男
を迎えに行くべきか、子供の手前平静を装いたかったけれど、内心パニックにはなっていました。
 
 どのくらい時間がたったのかはわかりませんが、父が運転する車に母に、祖母、次男、犬をのせて我が家ま
でやって来ました。実家は門脇町三丁目、しょう法寺の近くで、それまで津波の直接の影響はない地域でしたが、
地震の大きさ、体の不自由さから避難することを決め、避難場所である門脇小学校へ向かったが、車が入れず
我が家を目指したようです。父は以前、脳梗塞にかかり片手片足が不自由でした。祖母は93歳、アルツハイマー
を発症していました。だから、車でなければ移動は無理でした。父が避難を決意してからも家族を乗せ、渋滞
につかまり、かなりの時間がかかったのだと思います。我が家の前に車を止めて、外にいた長男と車にいた次
男を母が家の中にいれ、玄関の中にいた私に「じぃちゃんとぴぃちゃん(祖母)連れてくるから。ふじまる(犬)
頼んだよ」と言って私に犬を抱かせて、安心させようと笑顔で、明るい声で出て行きました。が、玄関を開けたときにはすでに肉眼で大人の膝上くらいの黒い波が押し寄せてきていました。家の前に駐車していた車の中
では降りられずにいる祖母、諦めたような顔をした父と目が会いました。そして母が出て行きました。私は声
も出せませんでした。
 すぐにドアから黒い波が入って、他の部屋でガラスが割れた音や部屋が軋む音がして慌てて子供達と実家の
犬を連れて二階の北側の物置にしていた狭い部屋にはいりましたが、私たちを追うように二階まで波もきて子
供達を衣装ケースに上げるのがやっとでした。狭い部屋に逃げる途中、南側の窓からうちからはかなり離れて
いたところにあった新めの家が、一軒まるごとユラリユラリと波に流されて、たぶん我が家の門柱辺りにぶつ
かったのだと思います。家の一階部分に吸い込まれるように大破しました。
 
 父も母も、追っては来てくれませんでした。
 
 津波の間の、叫び声や必死に誰かの名前を呼ぶ声、その声が伝える誰かが亡くなった瞬間…。地獄以外のな
にものでもありませんでした。
 
 津波の直後、雪が降りました。だんだんと日も陰り、人生で一番怖くて、暗くて、冷たい、長い夜が始まり
ました。何度も繰り返される強い揺れ、防災警報、夜には東側の地区が赤々と見えていました。子供達と犬を
濡れないように衣装ケースに座らせたまま、どうにか濡れずにすんだものを集めて身を暖めながらの長い長い
闇でした。
 
 二階に食料はおいていなく、ようやく見つけたおかしと500 ミリリットルの水一本が私たちの三人と一匹の
食料でした。朝が来ても水に囲まれたままの家は船のようにずっと揺れていていました。ヘリはたくさん飛ん
でいるのに、こちらには来てくれず、朝晩の寒さと食料と水の乏しさを考え、自力での脱出を決意しました。
隣の家の方が次男を背負って下さったり、それまで知らなかった近所の人たちにも助けられたりしながら、よ
うやく避難所に入れたのは夜七時半でした。160 センチ以上ある私の胸までの汚水を掻き分けての脱出で、体
の芯から冷えきっていました。
 
 子供達を背負ってくれた人たちがいなかったら、今、私たちはここに存在してはいられませんでした。
 
 私たち夫婦は幼い頃、宮城県沖地震を体験していたので震災に対しての恐怖と不便を知っていました。だか
らこそ、家の一階と物置には水、食料、医薬品、連絡先を記入したもの、持ちだしようリュック、懐中電灯、
乾電池、ラジオなどをいつも蓄えていました。携帯もつねに充電に気を付けていました。逃げるなら一階から、
ここまで津波は来るはずがない、それが私たちの当たり前の考えでした。でも、今回は一階は全てダメになって、
二階にあった懐中電灯、ラジオも津波に濡れ使えないまま、携帯は二階に逃げる途中に無くしてしまい、一瞬
にして全てゴミになりました。四年しか住んでいない家も二台の車も、みんなで大切にしてきたアンティーク
の家具も思いでの品々も、なにもかも。
 
 有り得ないことだ、起こるはずがない、なんて決めつけてはいけないんだ、と思い知らされました。
 
 父と母が命がけで守ってくれた子供たちがいて、主人も兄もいるのに、私の心には常に強い孤独感がありま
す。一人になると更に強くなって押し寄せてきます。子供達も苦しみながら、なんとかこの苦しみ悲しみを自
分なりに消化しようとしています。
 
 お笑いのピースの又吉さんが、魂を吸うというネタをやります。長男がボソッと「お母さん、魂を吸えるん
なら、俺の中にもじいちゃんとばぁちゃんはいるね」と言っていました。子供達もツライです。
 
 ですが、津波の夜、揺れと寒さに耐えながら、津波になんか負けない!地震になんか負けない!私たちは必
ず一緒だよ。と三人で誓い、子供達も私が取り乱したり、困難なことがあると「お母さん、ななが(次男)い
るよ。大丈夫だよ」と言って慰めようとします。「約束したよ。負けないよ。大丈夫だよ」と長男がいいます。
子供達のために、生きて行きます。
 
 すぐには立ち直れません。湯水のようにお金がかかり、流れてゆきます。石巻市でもまったく被害のなかっ
た地区もあり、以前世話になっていた被害のなかった家の人には「お金がないっていいながら、いつも買い物
をしてくる。金使いが荒い」と陰口を叩かれていましたが、本当に呆れるほどに 何もないんです。だからネ
パリさんのように私たちを応援してくれるひとたちがいることが どんなに心強いことか!言葉では言い表せ
ないほどの感謝です。本当にありがとうございました。

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