≪今月のスタッフ一言 2020年10月≫

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●映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」太田隆文監督 。日本で唯一地上戦が行われた沖縄。鉄の暴風と形容された、地形も変わるほどの激しい米軍の空爆や艦砲射撃に殺され、逃げまどう人々。守ってくれると信じていた友軍(日本軍)にも裏切られ、食料を強奪されたり、避難した壕から追い出されたり、まだ14,5歳の子ども達が男子は兵士に、女子は看護要員として前線で働かされたり、方言で話すとスパイ容疑で殺害されることもありました。兵士や看護要員として働けない幼い子ども達は疎開させられ、疎開船・対馬丸は攻撃を受け800名近い学童が海に沈みました。沖縄戦で実に住民の4人にひとりが尊い命を奪われました。ありったけの地獄を詰め込んだような、と言われるあの小さな島で起きたこと。映画はその地獄のほんの一部を映像と証言で伝えます。映画では具体的に語られませんが、本土決戦に備え長野県松代に大本営、天皇の御座所を造っていました。その工事のため、沖縄で少しでも長く時間を稼ぐ必要があり、司令官が自決した後も最後のひとりまで屈するなと求められ、追い詰められ集団自死した多くの人々。大嫌いな言葉ですが沖縄は『捨て石』だったとまで言われます。いったい誰のための?何のための?戦後、沖縄は日本から切り離され平和憲法の枠外にいました。やっと実現した悲願の本土復帰は沖縄に何をもたらしたでしょうか…。今も続く沖縄の苦難の歴史を深く知ることは同じ過ちを繰り返さないために必要なことではないでしょうか。(春代)
●世間を騒がしているコロナ感染、そのより多くの影響をネパールは受けています。とりわけ、社会的に弱い立場にいる子どもたちは大変です。養護施設では、2月に急逝された理事長ラムさんの後任は見つからず、その後をご家族(息子、娘)が面倒をみてくれていますが、長引く学校閉鎖と再開、進学が重なり、特に、カレッジ生の進学とその費用面を含めた対応に苦慮しています。オンライン授業の試行錯誤も始まり、パソコンの準備などもありました。親も、親戚もない子どもたちは、看護学校の入学試験を考えていましたが、身分を証明するものがなく、その準備にも1年近くかかることがわかり、学校を急遽変更することになりました。大学を卒業して仕事を見つけ、自立できるまでには、あと6年間は必要です。私たちの高等教育支援も、このコロナ禍で将来を考えてか、希望者が殺到しています。必要なファンドも、今までの2倍に膨れ上がり資金不足に陥っています。その希望者は、家も竹でできた粗末な場所、父親は亡くなっていない、母親との2人暮らしなどで、毎晩、現地のコーディネーターと対応策を話し合う毎日です。(完二)
●岩手・奥州市のアグリ笹森さんからもうすぐ新米が届きます。とても楽しみです。毎年稲刈り時期に伺い、手刈り体験をさせていただいてきましたが、今年はコンバインで稲刈りをする圃場を訪ねました。大きな機械を操るアグリ笹森の方々、とてもかっこいい!合間に子どもたちをコンバインに乗せてくださいました。子どもたちは真剣な顔でハンドルを握り、満足そう。食育としても、職業体験としても、とても貴重な経験です。お忙しい中、いつもありがとうございます。(早苗)
●テニスの大阪なおみ選手の優勝に感動しました!私は学生時代テニス一筋だったため、勝手に親しみを感じています。高い技術と精神力の賜物と思いますが、警官に殺された黒人の方々の名前を書いたマスクをされ、黒人への人種差別や警官による暴力に立ち向かうという、想像を遥かに超えるプレッシャーを課し、誰かのために闘ったことが強さとなり、勝利につながったのではと思います。しかし、残念なことに日本での評価は高くありません。「スポンサーを失うかもしれない不安と闘っています。スポンサーのほとんどが日本の企業だから」という彼女の言葉はショックでした。「スポーツと政治は別だ」という声も聞こえてきます。つまりは、日本で生きる私たちが、何を基準に企業や物事を評価するのかが問われています。人は生きていく中で様々なカテゴライズをされますが、その大前提に人であり、生きていくために声をあげているのです。「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」は、日本のメディアでは「黒人の命は大切だ」と訳されることが多いですが、私が受け止めた感覚とのずれを感じていました。ジャーナリストの大矢英代さんが、“より的確な訳は「黒人の命の問題は、私自身の問題だ」だろう”と言われていて、腑に落ちました。私自身が問われています。(百合香)
●最近、小学生の頃に感銘を受けた言葉を思い出します。「外交官としてではなく、人間として当然な決断をした」杉原千畝の様な大人になりたい、人間でありたいと思い、自分なりに社会にアンテナをはり疑問を持ち続けていたと、あるハンセン病の本を読むまでは思っていました。「国のある法律(らい予防法)が100年近く続いたのは、国民の無関心という消極的同意があったから。」私のことだと思いました。多くの決断と選択の繰り返しの人生の中で、知らないという理由で多くの人々の苦しみの上で成り立つ生活を私は送っていたのだと思うと、とてもショックで、苦しくなりました。「知らない」「遠い」「無関係」は理由にならず、世界中で起きている問題に私とつながっていない問題はないんだということを、今ようやく学んでいます。どんなに小さな決断でも、同じ人間として人を苦しめることも手を差し出すこともできます。これまでの私は人間として当然な決断ができていたのか、わかりません。これまでのためにも、やはり学び続けるしかないと思います。(萌)

2020.10.12

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